啐啄

教育現場と啐啄、Teachable moment について。

そっ-たく【啐啄】 (「啐」は鶏の卵がかえる時、殻の中で雛がつつく音、「啄」は母鶏が殻をかみ破ること)
①〔仏〕禅宗で、師家と弟子のはたらきが合致すること。啐啄同時。
②逃したらまたと得がたいよい時機。
(広辞苑より)

全国的に有名なある小学校教師が、子どもの成長のきっかけについて語っていた(参照)。
成長しようとする者のタイミングに合わせて、成長させようとする者が適切な刺激を与えることで教育的な効果は最大化される。

英語ではそのタイミングを”Teachable moment“と呼ぶ。

教室でも職場でも家庭でも、教育の場となりうるところには必ずTeachable moment が生まれる。
成長しようとする者がふと懐を開いて、自らの欠けているところを無防備に見せる瞬間。
それは、突然に現れ、消えていく。
成長させようとする者は、その瞬間をつかまえ、成長する者の懐が閉じないうちに、欠けているところにシュッと一吹き、肥料をかけてやる。
これをするのとしないのとでは、その後の成長に雲泥の差が出る。

教師や上司や親が、自分の都合や感情に任せて、自分のタイミングで何かを教え込もうとするのは教育ではない。
我慢できずつい口や手を出してしまうとすれば、それはただの文句か、教えたがりの身勝手な押し売り。
うるさくて恩着せがましくて、とても聞く気にならない。
たとえ内容が最高に素晴らしくても、ね。

話し手というものは自分の言葉が届いていないとき、それを敏感に感じ取るものだ。
で、届けるためにいろいろな策を試みる。
言葉を増やし、話を長引かせる人もいれば、「せっかくの俺様のありがたい教えを受け取らないとは何事か」と声を荒げ、怒る人もいる。
厄介だねぇ。
こうした場面の“被害者”たちは、その場を切り抜けるために、ひとまず受け取ったフリをする。
「そうかそうか、やっとわかったか」と大センセイはご満悦でも、実は「ふぅ、ようやく終わった」と思われている、なんてことになる。
もちろん大センセイが伝えたかったことは何ひとつ伝わらず、せいぜい悪い見本、反面教師の役目を果たすのが関の山。
ま、それでも結果的には教育になり得るけど、大センセイが期待しているのはそんな“スベリ芸”的効果ではないはずだ。

人を育てようとする者は、タイミングを図る。
育つ者がTeachable moment のチャンスを作ってくれるまでじっと待つ。
その時が来るまでに、伝えたいこと、教えなければならないことをたっぷりストックしておき、いつでも出せる状態にしておく。
そして、「ここぞ」という瞬間をつかまえて、厳選されたほんの少量の大事なことを、サッとふりかける。

それはサンタクロースの仕事に似ているかもしれない。
サンタクロースは子どもたちの欲しいものを綿密に調査し、一人ひとりに合ったプレゼントを用意する。
時にはわざとリクエストどおりではないものを用意することもある。
それをあの大きな袋にどんどん詰めていく。
そして、クリスマスイブの夜まで置いておく。
「もう用意できちゃったから」「早くあげたいから」と言って、クリスマスを待たずに子どもたちにプレゼントを渡したりはしない。
「あれもこれも」とプレゼントをいくつもあげたりもしない。
そんなことをしたら、せっかくプレゼントをもらっても、子どもは喜ぶどころか、きょとんとしてしまう。

サンタクロースは子どものために一つだけプレゼントを用意し、子どもの心の準備が整うのを待つ。
クリスマスの朝目覚めた時という、特別なタイミングを利用することにより、子どもがもっとも喜び、贈り物の効果が最大化されるということをサンタクロースはよく知っている。

良いタイミングで必要な刺激を与えられた子どもは、それをしっかりと受け取り、その出来事を長く記憶に残す。
その時はわからなくてもいい。
やがて大人になって反芻したとき、記憶は別の解釈を与えられ、その人に新たな学びの機会をもたらす。
Teachable moment は一瞬だが、その教育的効果はずっと続く。

日頃は黙って見守り、必要なものを周到に用意し、“逃したらまたと得がたいよい時機”をじっと待って、その時が来たら迷うことなく動く。
そういう観察眼と忍耐力と瞬発力を備えた人を優れた教育者と呼ぶのだと思う。

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