何かの力を借りないと社会とつながれない人。
自分の力で社会とつながっている人。
写真家で映画監督の蜷川実花さんは、父親の蜷川幸雄さんに「男を通じてしか社会とつながれない女になるな」と言われて育ったそうだ(参照)。
非凡な才能の持ち主である父と娘だからこその、特殊な教育方針だと言ってしまえばそれまで。
だが、これ、結構応用の効く考え方じゃないかと思う。
「男を通じてしか社会とつながれない女」。
この場合の『男』とは、『女』を招き入れてくれる人のこと。
単独で社会に入ることが許されていない『女』は、玄関で警備員に止められ、受付で『男』を呼んでもらい、『男』が迎えに来るのを待って、『男』の監督責任の範囲内で限定的な活動をするという条件のもと、『男』の身分証明のおこぼれを使って特別に入構証を発行してもらい、ようやく社会とつながることを許可される。
この方法で社会とつながりを持った『女』は、あくまでも一時的なゲストまたは見学者であって、決して社会の一員ではない。
部外者が見学できるところは限られている。
が、たとえくまなく社会を見て回れる機会があったとしても、『女』本人がそれを望まない。
『女』は気楽に社会の一部を見学できれば満足なのであって、全体像など理解できなくてもかまわないと思っている。
一度も社会を見たことがないというのはさすがにマズイけど、深入りすると責任を伴って大変そうだから、正式なのは要らない。
たまに『男』に連れてってもらうぐらいで十分なのだ。
ジェンダー対策としていちおう書き添えておくが、ここで言う『男』『女』は蜷川氏の言葉から引いた記号であって、他意はない。
「女を通じてしか社会とつながれない男」でもよいし、もっと言えば「親あるいは子を通じてしか社会とつながれない人」、「組織や所属を通じてしか社会とつながれない人」、「カネを通じてしか社会とつながれない人」などに換えても内容としてはまったく同じ。
補足ついでにもう一つ書いておくと、『社会とつながる』とは、外で働いて給料をもらうというような表面的なことではない。
稼ぎがあったって、社会とつながっていない人はいくらでもいる。
その対極にあたるのは、社会に求められて自分の名前の入った許可証を与えられ、自らの足で社会に入り、つながりを作り、社会に貢献することで、日々そのつながりを強化している人。
アンテナを張り、動き、感じ、判断し、他を気遣い、感謝し、迷っても悩んでも、社会から逃げないで前へ進む人。
視野の広さ、柔軟性、そして自立した態度を持ってさえいれば、専業主婦や学生でも社会としっかりつながることができる。
もっとも、「いい男を見つけて、その庇護の下で暮らせる女になれ」という教えもあるだろう。
(この『男』『女』も単なる記号ですよ、念のため。)
そっちのほうが処世術として賢いと思う人もいるだろう。
矢面に立つより、盾に取る何かを持つほうが得だと。
どっちが良いとか悪いとかじゃない。
考え方次第。
ただ、何かにすがって辛うじて社会とつながっている人は、不安や不満が多く、ストレスを抱えやすいように思う。
社会の中に自分の居場所を築いている人は、強くてしなやかで魅力的じゃないかな。
だとすると結果的には個人の幸せに影響することになる。
「男を通じてしか社会とつながれない女になるな」。
大人の耳にはともすると過激に聞こえるこの言葉は、子どもにさまざまなことを考えさせる。
「なぜそういう女になってはいけないか」
「どうすればそういう女にならずに済むか」
「そのためにはどうしたらよいか」
「そうまでしてつながっておくべき社会とはどんなところなのか」。
考えるというプロセスを経て、子どもは自立する必然性を発見する。
自分の人生を切り拓いていく覚悟ができる。
これから厳しくなっていく世の中では、自力で社会とつながれる人の需要はますます高まる。
教育はそれを見越して、一刻も早く準備を整えなければならない。
ところで蜷川幸雄さんは同じことを妻にも言っていたそうだ(参照)。
妻にも娘にも、理想の“イイ女”になってほしかったんだね。
そして妻も娘もそれに応えた。
素敵だなぁ。
なんだかこの文章にはやけに励まされました~。私も、こんな感じ目指して、まだまだこれから頑張りたいです:)
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