論理的な言語

日本語、英語、ドイツ語、フランス語、etc. etc.
“論理的な言語”というのがあるとかないとか。

先に言ってしまうと、私は言語そのものが「より論理的かどうか」を測ること、つまり「言語Aは言語Bより論理的だ」と結論づけることは不可能だろうと思っている。

論理的かどうかは言語の体系や特徴ではなく、その使い方、運用によって決まると思う。
その意味で、『英語』とひと口に言っても、イギリスで使われる英語とアメリカで使われる英語では論理性に差がありそうだし、その差にしても、「誰がいつ、何の目的で使うか」という個体差と比べれば、格段に大きいということはないだろう。
そして、その言語を使う人たちの論理性の差異や分散、あるいは平均値を測定することができるとは思えない。

どの言語を用いても、絶望的に非論理的な人はいるし、たとえば、そんなものがあるかどうか知らないが、絶望的に非論理的な言語を用いても、その言語の範囲内で最大限論理的に語ることはできるだろうと思う。

自負や個人的な思い入れから、「私の使う言語は論理的である」と主張したくなることがある。
あるいは逆に「私の使う言語は非論理的である」と主張して、自分の語る内容が論理的でないことを、言語のせいにしたりもする。
使用人口の多い言語は論理的な議論をする場で共通語に採用されることが多いため、「ってことはこれが論理的な言語だ」とつい思ってしまうこともある。

どれもこれも、気持ちはわかるけどね。

たとえばどこかの天才が言語別に論理性を測定し、“論理的な言語ランキング”みたいなものを発表したとしても、「じゃあこれから論理的なことをやるときにはランキング上位の言語でいきましょう」ってわけにはいかない。
もし、すでに絶滅した語(extinct languages)や少数民族の言語がランクインしたら、それを掘り起こして、みんなで論理的に使えるところまで広げる、というナンセンスなことをしなくちゃならない。

論理的な言語を見つけてきて論理に使うのではなく、手持ちの言語を論理的に使うのだ。
これは個人でも社会でも同じこと。
国際的な場で“論理用言語”として選ばれるためには、その言語がすでにじゅうぶん広まっている必要がある。
使用人口が多い言語。
それは時代によって変わる。

確かに、世界の言語の中には、より多くの人に受け入れられやすい言語というのがある。
ある言語が世界に広がりを見せるとき、もちろん第一要素は政治的、経済的事情だとしても、比較的「とっつきやすい」と感じてもらえる素質を備えていると、より急速に、広範囲に広がりやすい。
たとえば英語がそう。

今日の英語のように使う人が増えれば、英語を使って論理的作業をする人の数も増え、その人たちが(これまた政治的経済的事情により)英語で論理的なやりとりをする機会も増える。
そうこうするうちに、「論理的な話をするときは英語がラクだなぁ」という個人的な感想を持つ人も増える。
英語モノリンガルがそう言っても説得力はないが、バイリンガルが自分の母語より英語を高く評価したりすると、なんとなくもっともらしく聞こえる。

何を隠そう、私もその一人。
論理的な作業には日本語より英語の方が便利だと思う。
しかし、これは単なる個人的感想の域を出ないので、「英語は日本語より論理的」などと結論づけるつもりはない。
まして、英語を使わない人をまとめて「非論理的」と呼んだりもしない。

私は論文を読んだり書いたり、議論をするなど、論理的に考えたり語ったりする場面で、今のところ日本語より英語を使う機会のほうが多いので、単に英語で論理を組み立てることに慣れているのだろう。
今後、日本語での論理的作業に慣れれば、日本語のほうが便利に感じるようになるかもしれないが、そのときもやっぱり、「実は日本語の方が論理的だった」とは言わないと思う。

第二言語習得と論理性の関連は、あるかもしれないな、とは思う。
しかし、それは第二言語を習得することを通じて視野が広がり、さまざまな論理的意見に触れる機会が増え、教養が深まり、自分の意見が構築され、それをより多くの人に、より正確に伝えたいという欲求が生じた場合の話であって、新しい言語を追加しさえすれば非論理的な人が論理的になる、なんてことはないだろう。

ここ数年、私は日本語で発言する機会が徐々に増えてきた。
しかし、表現としては日本語を使っても、論理の組み立て用にはあいかわらず英語のしきたりを使っていると思う。
英語を知っている日本人が相手だと、議論しやすいような気もする。
でも、「気がする」以上の確固たる意見はない。

私が論理的だったら、それは大学院やその他の場面での練習の成果が出て、その時たまたま冷静に論理を組み立ることに成功したためであって、英語が少しばかりできるからではない。
私が非論理的だったら、それは私に揺るぎない論理性が身についていないか、感情的になっていたり、虚勢を張っていたり、緊張していたり、酔っぱらっていたり、眠くてしょうがなかったりして、論理の組み立てに失敗したせいであって、私の母語が日本語だからではない。

「論理的に議論できる日本人を養成する」という目標は結構だけど、「だから英語教育」という結論まで導こうとするなら、その間にあるべき“論理”をじっくり聞かせてもらいたい。

「論理的な言語」への2件のフィードバック

  1. 昔、大学院で一緒だったドイツ人は、独、英、伊、西、日 の5ヶ国語がペラペラでしたが、英語で哲学は思考できないと言ってました。
    英語だと軽く感じられたのかなあ。

  2. その方が何語で哲学の世界に入られたかによるでしょうね。6つめとしてぜひギリシャ語をやっていただき、感想をお聞きしたいです(笑)。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です