続・Doubt

“そもそも論”について、再考と、反省と、決意。

先日書いたことをまとめると、こういうこと。

『英語教育はじめました』という看板を出したところで、立ち寄ってくれる日本人はいないんじゃないか。
「ゴリゴリ鍛えてあげますけど、いかがです?」と声をかけたら、きっと反応は以下の4種類ぐらい。

「使い道がないんだよねぇ」
「興味はあるんだけど時間がなくて」
「自分でなんとかします」
「日本人にしてはできる方だから、これ以上はいい」

とはいえ寄ってくれれば誰でもいいというわけではない。
「すぐペラペラにしてくれるなら」「楽しいなら」「ラクなら」などと言う人にはお引取りいただく。
英語うんぬんというより、学ぶということに向いてないからね。
中途半端がお好きな方は明るく楽しい英語屋さんへどうぞ。

それで、閑古鳥が鳴く、というわけだ。

日本人を批判するつもりはないんだけどね。
たとえばこれがアジアの他の国だったら、きっと反応が違うと思うんだ。

「英語は必要だから」
「教えてくれるなら時間は作る」
「効率よく学習したい」
「世界で通用するレベルまで行きたい」

ま、ないものをねだってもしょうがないんだけどさ。
ただ、こっちにも一応モチベーションてものがあるから。
ガッカリしちゃうわけよ。

しかし、よく考えると、ガッカリするのはおかしい。
教育とは本来ただのおせっかいのはずでしょう?
「誰にも求められず、役にも立たず」でもともと。
見返りを求めなければ、ガッカリなんてしない。

そして教育にマーケティングを持ち込んではならない。
マーケティングを持ち込んだら、それはもう教育ではない。
だから、儲からなくても、バカみたいに見えても、来るかもしれない、来ないかもしれない者のために、いつでも迎える準備をして、扉を開けておく。

たとえば不意に志のある者が訪ねてきたとき、扉が閉まっていたら、せっかくの志はついえてしまうかもしれない。
有望な学習者との縁を結び損なうことになる。
それはあまりにも口惜しいではないか。

そもそも論に戻るなら、やっぱり日本人に英語教育は要らないのかもしれないと思う。
でも、だからといって退く理由にはならないだろう。
売れゆきで進退を決めるのはビジネス業界に任せておけばいい。
教育は、たとえ「要らない」と言われても、慌てず騒がず、「あ、そう?じゃあ要るようになったらまたおいで」と言って、どーんと構えていればいい。
今はお世辞にもやる気があるようには見えない日本人たちだけど、ある時ふと気が向いたら「そういえば看板が出てたなぁ」と思い出してくれるかもしれない。
その時に備えて、扉を開けておけばいい。

教える用意のある者が、教える用意をして待つ。
それだけのこと。
それ以外には、ない。

しっかりしよう。

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