大人より子どもの方が早く英語が上達するのは何故か。
「耳がいいから」?
「頭がやわらかいから」?
バカ言ってんじゃないよ。
答え。
大人より子どもの方がうんとがんばってるから。
それだけ。
たとえば日本からアメリカへ引越してくる。
大人が「まだ慣れてないから」「まずはお試し」「落ち着いたら」なんて言っているごく初期のうちにも、子どもは現地の小学校など、どっぷりアメリカな社会へ容赦なく放り込まれる。
大人のように「英語はさっぱりなので」と言って、通訳を頼んだり、誰かに代わってもらうことはできない。
特に田舎なら、クラスに日本人の“先輩”がいることはほぼありえない。
アジア人がいることさえ珍しい。
みんなが立ったら立つ。座ったら座る。
みんなが笑っても、何がおもしろいかわからない。
クラスメートが話しかけてきても、何を言っているかわからない。
黙っていても成立する体育や図工は一息つけるけど、他の教科ではいつも不安なことだらけ。
「アメリカはどう?」「学校は楽しい?」と聞かれても、どう答えればいいかわからない。
大人は「日本にいるより気楽です」なんて答えることもあるけど、子どもにとって外国生活は緊張の連続だ。
先週お手伝いに行っていた小学校で、校内放送が入った。
ランチメニュー変更のお知らせだった。
日本から来て半年の子たちにさりげなく確認してみると、放送の内容がちゃんと聞き取れていた。
大人だったら「リスニングは苦手で」とごまかすかもしれない。
「教室がうるさかった」「音がクリアじゃなかった」と言って、聞き取れないことを正当化するかもしれない。
子どもたちの世界では、そんな言い訳は通用しない。
大人は、下手をすれば何十年でも、日本で培った経験や知識の貯金を崩して暮らしていける。
しかし、子どもは毎日、次々と新しいことを吸収しなければならない。
日本で習っていないことを、初めて、アメリカの学校で習う。
それを、まだおぼつかない英語で身につけなければならないのだ。
半年も経てば、日本語に訳しても役に立たないことの方が多くなってくる。
たとえば算数で、計算をしたあと「どうしてその方法で計算したのか」と説明を求められる。
日本の学校では見かけないタイプの問題だ。
大人なら、まず「日本語でならできるけど」と言うかもしれない。
でも実際には日本語でもうまく説明できないだろう。
日本で頻繁に指摘されているとおり、自分の考えとその妥当性を論理的に述べることができる日本人は極めて少ない。
アメリカではそれを初等教育から徹底的に訓練する。
子どもには「そういうの、日本でやってきてないんです」と弁解する機会は与えられない。
抽象的な概念というのは、なんとなく理解できても、それを自分の言葉で説明し、誰かに承認してもらうまで、わかったという実感が持てないものだ。
聞く・読むというReceptive能力が伸びても、話す・書くというProductive能力がまだ十分でない段階では、たとえ正しく理解できていたとしても、それを確認する術がない。
「ひょっとしたら自分だけ誤解しているかもしれない」。
「わかっていないのはきっと自分だけだ」。
そういう孤独感さえも、誰に受け止めてもらえばいいかわからない。
親は自身の環境の変化に対応するのにいっぱいいっぱいで、子どもの悩みに気づいてやれないことが多い。
そうしてある時、蓄積された心細さや惨めな思いがぶわっとあふれて涙が止まらなくなる。
全身を震わせて、体を熱くして、涙をぽろぽろこぼす。
抱き寄せて「大丈夫だよ」「よくがんばってるね」と涙を拭いてあげることはできても、この子たちを辛さから解放してやることはできない。
子どもたちはひたすら耐え、乗り越えていくしかない。
子どもたちは毎日必死に闘っている。
もし子どもたちと同じだけ必死になれるなら、大人だって同じように成長するはずなのだ。
「英語は子どものうちにやっておけばラク」とか言って、第二言語習得をはしかや風疹と一緒にしてる大人は、全員並べてビンタしてやりたい。