『我的日本語』

リービ英雄・著『我的日本語』を読んだ。

著者は「西洋出身者として初めての日本文学作家」。
たまたまYouTubeで彼のスタンフォード大学での講演The World in Japanese を見て、日本語でも読んでみたいと思ったのだ。

『自伝的日本語論』と言われているようだけど、私はそうは思わなかった。
『自伝』でいいと思う。

日本とアメリカ、日本と中国、公と私、近代と現代、昔と今など、さまざまな“ふたつ”の双方から入っていき、その奥に“ふたつ”の融合体のような、それでいて、どちらにも似ていない“みっつめ”を見つける人。
私がこの本の中でもっとも衝撃を受けたのは、「2つの言語を遣う」ということについて、非常に深く、丁寧に考察されているところ。
「母語でない言語で書く」とはどういうことか、考えさせられた。

「中心であり普遍」である英語を母語に持ちながら、「周辺であり特殊」(p.30)である日本語で書く、ということを、その力関係に気づく前に選択した著者。
自身の体験を語りながら、それと対比させるかたちで、渡来人として持ち込んだ大陸の感性をあえて日本語で表現した万葉歌人や、自ら日本語を母語とし、後に韓国語を習得して、言葉とアイデンティティの問題を描いた在日韓国人作家や、政治的にニュートラルな2言語を自由に行き来しながら、ドイツ語でも日本語でも創作する日本人作家などが紹介されている。

「人は誰しも、朝起きたときに、言葉の杖をつかんで生きる」(p.103)。

母語とは別の、2つめの言語を獲得することの意味を、英語教育はこれほど真剣に考えていない。
彼らの言語に対する取り組み方と比べると、英語教育は言語をあまりにも乱暴に扱い、「2言語を遣う」ということや、そうする人を増やすことについて、まったく無責任に、軽薄に、ただやり散らかしている。
そのことを諌められたような気がした。
恥ずかしい。

この恥ずかしさは、ずっと前にも感じたことがある。
英文学をやっているIさんと話していて、私は「文学は言語の美しさを追求し、守ろうとしているけど、言語教育は美しさを破壊しておもしろがっているような気がする」というようなことを言った。
そうだった。久しぶりに思い出した。

そう考えると、私はずいぶん荒っぽい商売をやっているんだなぁ。
言語にとっては迷惑行為かもね。
ごめんね。

私は文学の人ではないので、この本から伝わってくる作家の感受性を共有することはできない。
でも、「2言語を遣う」ということに関してだけは、文学のレベルには程遠いけれど、少しだけわかる。
そして、その感覚こそが、母語でなく、英語を商売道具に選んだ理由だった。

私が日本語教育をやめて英語教育に戻ったのは、“教卓”をはさんだ向こうとこちらという関係において、「2言語を遣う」という感覚を共有したかったからだ。
教卓という概念をとっぱらって、同じ“周辺”の人として“教室”に集いたい。
英語という“中央”の言語を肴にして、「厄介だよね」「しんどいね」「イヤんなっちゃうね」とグチりたい。
ネイティブとして頂上から「ここまでおいで」と言うのではなく、みんなで一緒に進みたい。

そうだった。久しぶりに思い出した。

リービ英雄. (2010). 我的日本語:The World in Japanese. 筑摩書房.

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