“リアリスト”

「『色と欲』だけがリアルであり、『きれいごと』はフェイク」という考え方について。

「人間が醜悪で卑劣な動機から行動することは信じるが、何かしら崇高で非利己的な目的のために行動することは信じない。」
それを「リアリズム(現実主義)」だと誤解する。

内田樹氏はこの考え方について、「その人のパーソナルな経験が生み出した私見であり、一般性を要求できるようなものではない。」と言っている。

まぁそうなんだろうけど、でも、あいにくそこそこの数のサンプルがすぐに採れる。
身近な“現実”のアタマ数を前にすると、早とちりの人は「一般的」と思いこんでしまう。
なにしろ早とちりの人は一刻も早く結論を出したいからね。

政治の話じゃなくて。

「人間は醜くて汚くてズルくて、嘘を吐いて人をだますもの」
「美しく、優しく、気高いことは虚像」
「親切、愛情、思いやりはすべて人をだますための手段」。
この視野の狭さと臆病な警戒心はいったいどこから来るんだろう。
何をどうしたら救われるんだろう。

子どものころに親から無償の愛を受けられずに育つと、愛情を受け止める器がザルのように穴だらけになってしまい、後々、たとえ潤沢に愛情を与えられることがあっても、入れたそばからこぼすばかりで溜めることができず、結果、いつまでも幸せを感じることができない、という話を聞いたことがある。

自分の器がからっぽならば、他人に愛を配ることなどできるはずがない。
他人の幸せなど望めるはずがない。
他人の幸せを望んだことがなければ、他人が自分の幸せを望んでくれることなど信じられるわけがない。

「『私欲と我執だけが信じられる唯一の現実だ』という人間理解に居着いた『リアリスト』がそこから解放されることは困難である。」と内田氏は言い切る。

社会的な文脈での”問題児”ならば、その立場や権力を奪って社会から追放することができる。
要するに、縁を切ってしまえばいいのだ。
しかし、それで“問題児”が内面に抱える問題が解決するわけではない。

こぼしてもこぼしても愛を注ぎ続けてくれる人に巡り合えたら、彼らは救われるのだろうか。
愛を注ぐ人が疲れきってしまう前に、器の穴をふさぐことができるだろうか。

幸せをこぼして不幸を溜め込む人を作ってはいけない。
子どもを寂しくさせてはいけない。

内田樹. (2012). 『「リアリスト」に未来はあるか?』 Retrieved April 4, 2012, from
http://blog.tatsuru.com/2012/04/04_1251.php

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