自然科学的教育論

自然科学的研究姿勢と、教育の進歩、その利用などについて。

私の周りでは貴重な自然科学の研究者Nさんに質問。
「自然科学をやる人にとって、科学の進歩や知識とはどういう意味ですか?」。

自然科学の分野では、研究が進み、たとえ世界中を驚かす大発見があったとしても、研究対象に変化をもたらすことはない。
人間の知識が増えようと増えまいと、昨日と同じように地球は回る。
それを承知の上で研究を進めていくという環境で、研究者はどんな目標や喜びを持ち、どんなことを支えにしているのか聞いてみたかった。

Nさんはまず「研究者の自己満足でしょうね」と言った。
人生をすべてかけても自分の専門分野の秘密は解明されない。
ただひたすら自分の興味を追求するのみ。
では、研究による貢献があるとすれば?と問うと、「産業界で効率的に利益を上げるため、あるいは、人間やその他の生物が安全に生きる可能性を高めるための資料を提供することぐらいかな」という答えが返ってきた。

Soft Scienceの中でもとりわけソフトな分野にいる私が、これに共感することが許されるかどうかもわからないが、あ、わかる、と思ってしまった。

ひとくちに「教育が専門」といっても、その中にいる研究者の考え方は千差万別。
教育をビジネスに当てはめて改革しようとする動きや、教育にイノベーションを持ち込もうとする昨今の流行は、いわば教育への工学的アプローチだと思う。
このアプローチは研究者にとっても世間一般にとっても、非常に魅力的らしく、大いに受け入れられている。
だから「この方法なら成功間違いなし!」という教育的アイディアが、ひっきりなしに生み出され、いちいち注目される。

これに対し、私にはどうしても違和感がある。
人間がちょいとばかり知識をつけたぐらいで、教育を“変える”などということができるとは思えないのだ。
自然科学というまったく異分野の研究者の姿勢を参考に、この違和感の正体を説明できそうな気がする。

教育の研究者にできることはせいぜい資料提供、というのが私の見方だ。
人間が育つ過程をじっくり観察して自己の研究欲求を満たす。
それに付随してもし何らかの貢献があるとすれば、産業界で効率的に利益を上げるため、あるいは、人間やその他の生物が安全に生きる可能性を高めるための資料を提供すること。
それ以上に携わることは研究者として領域外の事柄であり、領域外に手を出すときは利用者として自覚をするとともに、立場を明確に公表すべきだと思う。

資料提供をする研究者と、資料を教育的に利用する教育者と、ビジネスのために利用する商売人。
たとえ一人で三役をこなすことがあるとしても、そこははっきり分けておいてほしい。

英語屋業界が資料を利用して商品を作り、売る。
現場の先生が目の前の生徒のために資料を使う。
研究者はそのどちらとも違う立場を保たなければならない。
個人的な名誉や金銭的事情のために、よく考えもせずどちらかに一方的に加担すると、事態がややこしくなって世間を惑わすことになる。

そしてその三者に関わるすべての人は、教育の世界をガラッと変える革新的発明、などというものが、そもそも本当に存在するのかどうか、よーく考えたほうがいい。
存在するとしても、その即効性には副作用がないか、慎重に検討してから取り入れたほうがいい。

世紀の大発見から生まれた商品が爆発的に広まり、新たな産業を生み経済を活性化することがある。
自然科学のように、たとえ仕組みを知り尽くしても、その知識が自然の営みに影響しない、ということもある。
知識がすぐさま変化につながるかどうかは分野によって異なる。
教育がどこに属するかは議論の分かれるところなのだ。

私の個人的な好みとしては、世の中の流れがどんなに早くなっても、教育をやる人たちだけは気長でいてほしいんだよなぁ。
カネや競争にもなるべく無頓着でさ。
そういうのはもう流行らないのかしらね。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。