経験

「経験は多ければ多いほどいい」みたいな風潮に、私はわりと不賛成。

見知らぬ土地へ出かけていったり、新しいものや人や感覚を受け入れたりして、見聞を広げるということの意味は大きい。
私の思想も発言も行動も、経験が基になっていることは間違いない。
これまでのあらゆる経験がひとつでも欠けていたら、いま現在の私にはたどり着いていない。

経験は大事。
でも経験がすべてではない。

「経験した人でないとわからない」という言い方がある。
これは不思議な表現で、経験のない者が経験者に向かって使うと敬意を示し、経験のある者同士が使えば同情となり、経験のある者が未経験者に向かって使うとこの上なく傲慢で排他的に聞こえる。

『経験』の定義としてたとえば内田樹氏などは“想像的経験”という呼び方で、実生活で経験した実際的な経験と、想像の世界で経験した主観的な経験を同列で語る(参照)。
「経験した人でないとわからない」というのが傲慢に聞こえるのは、この想像的経験を完全に排除して相手を未経験と断定し、自分の経験を見せびらかすためだ。
「経験した人でないとわからない」と言い放ったその目の前にいる相手が、どのような想像的経験を積んでいるのか知ろうとしない。
想像しようともしない。
とても無礼な態度だと思う。

「経験した人でないとわからない」と言う人は、そのことについて、「自分は実際的に経験するまでわからなかった」、つまり「想像的経験を持つ機会がなかった」ということを自白している。
相手に向かって「あなたはXXだからわからない」と言って突き放すとき、その人は自分の想像力の欠如や思いやりのなさを暴露するのだ。

想像的経験を経験に含めると、生きてきた時間や経歴などは経験の基準にならないし、そもそも他人の経験量を量ることなどできないのだと気づく。

コドモは自分の経験をついみんなに聞かせたくなる。
「ねぇ、こんなことやったんだよ。すごいでしょ」と言いたくなる。
オトナは「すごいねぇ、よかったねぇ」と言ってくれる。
でもそのオトナ達は同じ経験をとっくの昔にしているかもしれない。
若くて小さいコドモはかわいらしいから許されちゃうけど、年齢を重ねたコドモは厄介。
しかし、そのかわいくないコドモでさえも許せる包容力がオトナの魅力。
殊更に披露しなくても、コドモには見えなくても、オトナの佇まいの端々には、その人の経験の“証拠”や“実績”が自然と現れている。

さらに言うなら経験の多さを誇ることには意味がない。
経験なんてものは誰でも自分に必要な量だけ積むように、自動セットされているのだと思う。

要る経験はする、要らない経験はしない。
要るか要らないかは人それぞれ。
たとえば辛い経験が与えられた人は、その人にとって必要だからそうなったのであり、経験を材料に成長できるようになっているのだが、その必要がない人は経験しなくていいようになっている。
同様に、至福というような最高の幸せも、全員が経験しなくちゃならないわけじゃない。
もらっても受け止め切れなかったら困っちゃうしね。
この意味で、経験に良いも悪いもないのだ。

与えられる経験に不満がある人は、お与えになるカミサマと一度話し合ったほうがいいよ。
「なんの恨みがあるんですか、嫌がらせはやめてください」ってね。
きっと「あなたには見込みがあるから」と言われるよ。
逆に経験を増やしたい人はカミサマに振り向いてもらえるように、がんばってみたらいいんじゃない?
ま、どっちにしても適量しか与えられないんだけどさ。

来るものは拒めないし、来ないものは追っても捕まえられない。
そういうふうになっている。
これは経験に限ったことではないけどね。

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