言葉について。
言葉をつかうことは私にとって趣味であり研究材料でありライフワークである。
なので私は言葉をつかうということを大切にしている。
言葉に対して常に敬意を払い、誠実につかわせていただこうと思っている。
魔法を自由に使う能力のある生き物を『魔法使い』というなら、私はいつか『言葉使い』になりたいと思う。
こうした感情を私はさして特別なものとは思っていないのだが、言葉がいいかげんにつかわれている場面がやたら気に障り、いちいちカチンと来るという事実から察するに、私の言葉への思い入れ(愛情といってもいい)は普通じゃないのかもしれない。
いいかげん、とは不正確のことではない。
勘違い・言い間違い・聞き違い・書き間違い・読み間違いは、言葉をつかう上で避けては通れない。
私は言葉のつかい方を指導する立場でもあるので、それらを恐れずに言葉をつかうよう自分自身も心がけているし、他の人にも推奨している。
私が不快に思うのは、言葉がバカにされた、と感じたとき。
冒涜とか侮辱とかいう表現がふさわしいだろうか。
以下に内田樹氏の言葉を引く。
私はまだ彼ほどの『言葉使い』ではないから、丸ごと引く。
-------------------------------------------------------—-
言葉がどんどん軽くなり、人々はどんどん「とらえどころ」がなくなっている。
たぶん彼らは「言葉を軽くすること」でそれぞれの職務上の、あるいは倫理上の責任が軽減できるということを直感的に知っているのである。
その直感は正しい。
けれども、総理大臣からリーディングカンパニーの経営者まで、国立大学の教授から全国紙の社説まで全員が「私の言葉の意味をうるさく訊かないでくれ、言ったことの責任を追及しないでくれ、私が言ったことをいつまでも記憶しないでくれ」と言い出したら、この国の言葉はどうなってしまうのか。
どこかで踏みとどまって、「自分で責任が取れる範囲のことしか言わない、言ったことには自分で責任を取る」という規矩を自分の発言に課すという節度を立て直さなければ、私たちの社会の言論状況はさらにとめどなく劣化してゆくほかないだろう。
Reference
内田樹 (2011). メルトダウンする言葉. 『内田樹の研究室』. Retrieved June 14, 2011, from http://blog.tatsuru.com/2011/06/13_1158.php