ひさしぶりのカウンセリング。
2月ごろに行こうかなと思っていて時機を逸し、今さらかなーと思っているうちに3月に入り、なんだかんだで4月も下旬になってしまったのだが、とりあえず行ってきた。
ほら、花粉症とか風邪とか、「別に行かなくても大丈夫だけど行ったら早く楽になる」という感覚で病院に行ったりすることがあるでしょう?
たぶんアメリカ文化におけるカウンセリングってそんなかんじ。
しかも痛いこともないしまずい薬を飲まされることもない。
大学のカウンセラーはちゃんとしたPhDだし、学生は無料で受け放題なのでお得。
先日、NYC在住の日本人とアメリカでのカウンセリング経験を話していて、「え、アメリカ人のカウンセラーなの?」と驚かれて驚いた。
彼女のカウンセラーは日本人なのだそうだ。
さすがNYC。日本人の少ない田舎ではありえない。
「都会はいいなぁ」と一瞬思ったけど…うーん?
そうでもないかも?
逆に「なぜ日本人?」と尋ねたが、英語でカウンセリングを受けるという選択肢が初めからなかったそうで、これといった理由はないようだった。
「英語でカウンセリングなんて自信がない」と言うけど、カウンセリングなんてものはどうせつっかえつっかえやるんだろうから、気にすることはないと思う。
“立て板に水”のカウンセリングなんてイヤでしょう。
韓国人の友人Yは「韓国人のカウンセラーだったら絶対行かない」と言っていた。
私はプロでさえあればナニジンでもかまわないけど、Yの言うことはわかるような気がする。
外国での同国人づきあいは何かと難しいからね。
確かに、カウンセリング中に、「日本人同士だったらこの説明要らないよなぁ」と思うことはある。
『バチがあたる』という概念や、『後ろめたい』という気持ちを伝えようとするとちょっと手間がかかる。
しかしその一方で、『いまの私が置かれている立場』についてまったく説明が要らない。
これはとても助かる。
たとえば日本で日本人のカウンセラーを相手に、アメリカのPhD学生の生活がどんなものかイチから説明しようと思ったら、いくつセッションがあっても足りないだろう。
というわけで今のところ私には、アメリカでアメリカ人のカウンセラーにかかるのが合っている。