逃げ道

「逃がしてやる」ということについて。

ちょうどひと月前の今頃のこと。
いまや世界のどこでも説明不要の事態が、まだ誰にもきちんと理解できていなかったときのこと。

自分の生まれ故郷が思いもよらない形でメディアに繰り返し紹介され、海を越えてリアルタイムの映像が流れてくる一方で、家族や友人の安否を確認する手段もない状態にある人のもとへ、一本の電話がかかってきた。

それは、かいつまんで言えば、「今朝からさっそく募金活動を始めてこんなに成果があった」というような内容で、マスコミ関係者である彼に対して「自分の手柄を取材に来い」という依頼の電話だった。

「すみません、実は今こちらはこういう事情でして」と彼が説明すると、相手は「ごめんなさい!」とだけ言ってガチャンと電話を切った。
それ以来、ぱったりと連絡がないそうだ。

ひと月経ってそのエピソードを聞いて、私は憤慨したりがっかりしたりしてしまったのだが、それとは対照的に、当事者である彼は冷静に話を続けた。

「あの日からずっと相手は気まずい思いをしているだろうから、そろそろこちらから近づいてってあげないと」と言う。
仕事上のつきあいをやめるわけにはいかないので、「いやーあのときあんな電話をしてくるなんて、まいっちゃいましたよ」と冗談めかして会いに行くつもりだそうだ。
「相手の逃げ道は残しておいてあげないと」。

私は何も言えなかった。

不謹慎だの、無神経だの、非常識だのと責めるのは簡単。
私のように蚊帳の外にいる人間ほど、一人前の顔をしてとやかく言いたがる。
その小ささたるや、情けなさたるや。
恥を知るとはこういうことなのかもしれない。

「嫌なことばっかりじゃないしね」と彼は続ける。
帰国するならすぐにチケットを手配すると言ってくれた航空会社の人がいたそうだ。
「あれはうれしかった」と、本当にうれしそうな顔で振り返るのが印象的だった。

私のような小さい人間にできることはなにもない。
あるのは「何かしたい、させてほしい」という欲だけ。
なにかせずにはいられないからジタバタしているだけ。
そんな自己都合の塊にもかかわらず、「ありがたい」と受け入れてくださる当事者の強さに甘えて、活動を許してもらっているのだ。
部外者のすることなんて、すべて負担でしかないかもしれないのに。

そういう申し訳なさをしっかりと自覚しておきたいと思う。

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