優れた芸術家の中には“憑依系”といわれる人がいる。
役者や芸人が役に入る。
作家が主人公になりきってドラマを描く。
自分の中に複数の人格を取り込んでそれに同化して、“実体験”を作品に仕上げる。
演技や想像では到達し得ない生々しい表現が可能になる。
憑依がなければ、健全な一市民である役者が殺意や狂気を出すことも、芸人が奇抜なキャラクターを生むことも、円満な家庭を持つ歌手が泥沼の不倫を歌うことも、小説家が性別や時代や国籍を軽々と超えることも、できるはずがない。
憑依系の芸術を目の当たりにした観客は、胸元をわしづかみにされ、表現者の世界へぐいぐい引き込まれる。
そこにはもう創作と現実の境界がない。
私は憑依の持つこの魅力を、英語教育に取り入れられるんじゃないかと思っている。
もちろんそのままでは強すぎるので、サイエンスで割って希釈する必要があるけど。
Positivismに集約される“真理の追究”は、Hard Scienceと呼ばれる自然科学の大前提であり、いまだに科学の“本流”という考えが根強い。
“真理”とは正確な測量が可能で普遍的な法則を持ち、統計的に有意でなければならないという見方だ。
研究者はデータに対して常に客観的な立場を保つ。
Soft Scienceである社会学や人類学では、emic (⇔etic)といって、研究者が積極的に当事者の立場をとることがある。
ある現象をとらえたデータを分析するにあたり、研究者として客観的に取り扱うのではなく、現場に居合わせた人たちの目に映る現象を読み取る。
つまりデータを当事者の解釈で分析するという手法だ。
私が“憑依”と関連付けて考えているのは、このあたりのことである。
たとえば日本人がアメリカ人と英語で話すところを観察する。
eticをとるなら、客観的な第三者の立場を保って、言語学の知識や英語能力を備えた研究者の観点から、語彙や文法の正確性など発話内容の特徴を測定すればよい。
到達した結論は『日本人の英語』というように一般化され、それに基づいて「日本人はこうすると英語ができるようになる」という教育的な提言をすることができる。
あるいは教室でセンセイの立場から間違いや不足を指摘し、それを克服すべく教材や課題を与える。
現在ある英語教育はだいたいこの流れを汲んでいる。
しかし同じ観察をemicに行うと、研究者は会話をしている当事者たちの目を借りてデータを見ることになる。
この発言は相手にどう聞こえ、理解され、反応されたか。
その反応は次にどんな反応をもたらしたか。
たとえば言語的に“不適切”な発話があったとしても、それを聞いた相手が“適切”に解釈し“適切”な反応を示せば、当事者たちにとってすべては“適切”になり得るのだ。
それを解き明かすことで、今ここにあるこの会話の中の“真理”を提示することができる。
それは「日本人全員」には当てはまらなくても、この会話をしている人たちにとっては、普遍的で正確な“真理”よりずっと重要なはずだ。
大勢の生徒をまとめて教える教室では非効率で、大衆向けに出版する教材では実現不可能でも、「あなたの、あの場面の、あの発言」について、個別に指導する意味は大きいと思う。
憑依から生まれる表現は心に響く。
自分に向かってくる声はよく聞こえるのだ。