金持ちでも貧乏でもない甘ちゃんなりに、お金について考え中。
“お金持ちの卵たち”に会った。
ニューヨークという“ザ・成功”の象徴が立ち並び、成功をついお金で測るのが癖になっている街で、特に外国人として商売をやっている人や、これからその荒波に身を投じようとする人の話を黙って聞いていた。
学生+外国暮らしという保護下にあるのをいいことに、私はお金儲けと縁遠い生活をさせてもらっている。
イヤ、大学だって立派な経営組織だし、研究だってお金と切り離して考えることはできないけど、いわゆる“稼ぐ”のとはちょっと性質が違う。
もちろんどっちが良いとか悪いとか、キレイ汚いの問題ではなくて。
お金を作ったり集めたりするのは大変なこと。
まして大きなお金を守ったり動かしたりするのは、誰にでもできることではない。
お金は才能や運に恵まれた結果として与えられるとも言えるし、ストレスや困難、努力に対する妥当な報酬とも言える。
ガメツイだけで貯まるほどお金の世界は甘くないから、大金を得るためには技も知識も人間力も試される。
だから食うか食われるかの街で成功することは、名誉を勝ち取ることでもある。
より多くのお金を稼ぐという目標を置くことで、苦難に耐えるのも前に進むのも容易になるのなら、それは有益な手段だと思う。
目標をともにする仲間と夢を語るのも素敵だ。
でも私はそこへ入って行けなかった。
やっぱり私はお金に対する興味が薄いし、お金を作るのに必要な執着心が足りないということを思い知っただけだった。
以前、ある人と幸せだか成功だかの話をしていて、「emiさんの考えは結局のところ経済活動が基準だ」と指摘され、違和感を覚えつつもうまく反論できなかったことがある。
“お金な話”を黙って聞きながら、あのときの違和感が何だったのかを知るヒントがここらへんにありそうだなと考えていた。
たとえば私がお金儲けに乗り出すのはどんな場合だろう。
なるべくならお金には関わりたくないし、お金を増やすことを楽しめるとは思えないから、何かしらの不本意な事情が発生したときじゃないかしら。
“お金な人たち”は儲けがエネルギー源になるけど、私はしぶしぶやるからうまくいかないだろうな。
経済活動を中心に生きていくことは私にはできない。
その一方で、ひとつの成功が次の仕事をやりやすくするという現実から、離れることもできない。
ははぁ、「経済活動を基準にしている」と思われたのはそこかも。
今なら釈明できるかな。
成功には経済的・社会関係的資本がついてくる。
成功によって得たお金や実績や人脈を利用して、その先にあるやりたいことを実現可能にする。
お金を作る能力があることを示すのは、信用を得るためにも重要なステップだ。
元手がなければ“次の一歩”が買えない。
さらに窮屈な環境はクリエイティブな活動に適さない。
アイディアが生まれなければ“次”へは進めない。
環境を整えるにも資金は必要なのだ。
つまり、自分の活動の基盤と環境を整えるために、私はお金が必要と考えてはいる。
しかし、お金の増減を理由に活動の内容を変えたりはしないので、「経済活動を基準にしている」という表現には賛成できない。
「読んだ方が良い」と強く勧められた『金持ち父さん貧乏父さん』は結局読めないまま。
たぶん私はどちらの“父さん”でもないだろうから、なかなか読む気が起きないんだよなぁ。