母のおかかえ通訳として1ヶ月。
母語の操作力について考えた。
一般に第二言語を母語に訳すのは、その逆より易しいと言われている。
たとえば日本人と英語なら、英→日では内容理解さえ完全なら可能だが、日→英では高度な英語力が必要とされる。
…という言語能力のことは、問題としては比較的単純。
日→英の通訳で難しいのは、「日本的日本語の行間をどこまで埋めてよいのか」という判断だと思う。
日→英の訳をするということはすなわち、High context→Low contextの変換を行うこと。
発言者が発していない言葉を、間に入っている通訳が足して伝えることになる。
しかし、たとえば明らかに短い一言を説明の長い英語に訳すのは不審だし、「へぇ」→”Great”のように勝手に程度を変えるのも、出すぎた真似のようでやりにくい。
私は英語教育を専門にしていながら、「第二言語学習に莫大なお金をかけるぐらいなら、通訳を雇った方がいい」という考えの持ち主だが、一方で「第二言語をやっておくと、通訳を上手に使うことができるようになる」とも思っている。
釣ってきたマグロ一本を丸ごといきなり届けても、捌ける人は限られているでしょう?
それと同じで日本人にしか通じない日本語を投げて、「あとは適当によろしく」と目で訴えられても、通訳は困ってしまうのだ。
第二言語が使える人は母語を外国人向けにアレンジできるので、いわば“下ごしらえ”を自分で済ませて、通訳を“調理”に専念させることができる。
その結果、おいしいものを提供してもらえる可能性が高くなる。
ナニジンだろうと何語だろうと、相手にメッセージを届けたいと思うなら、届きやすい方法を知っておくべきである。
それは誰かに頼んで届けてもらうときだって同じこと。
そして届きやすくする方法は英語教育だけではないはずだ。
そもそも外国語学習は、異文化や外国人と関わりがない人には必要ないんだし、趣味にしては果てしなさすぎる。
「やらない」という選択肢はもっと尊重されるべき。
そのかわり、『母語を外国人(非ネイティブ)向けに話す』ことについては、もっと真面目に必死で取り組むべきだろう。
明瞭に話すこと・速度をコントロールすること・語彙や文法の簡素化を的確に行うこと・文化による談話構成の違いを知ること、などなど。
母語の操作がうまくなれば、母語(日本語)を第二言語(英語)に替える訓練を積むよりも、超一流の通訳を連れて歩くよりも、良質な異文化交流につながる。
こうした実用的で実践的な言語教育を率先して行い、世界に向けて発信していくには、教育レベルや言語意識が高く、かつ言語的な混じりけの少ない日本のような国がうってつけなんだけどなぁ。
その延長線上に英語教育をそっと置いておいたら、英語が使える日本人はもっと増えるんじゃないかと思う。