誤解についてまだ考え中。
誤解の種は自分で蒔くんじゃないかしら。
就活の履歴書に、『私は遅刻魔です』と書く人はいない。
書いてない=遅刻魔ではない、と誤解してもらおうという意図がどこかにあるんじゃないだろうか。
仮に誤解を避けることが最優先なら、「就職後もときどき遅刻しちゃうと思います」と白状しておけばいい。
それをしないということは、“誤解される”と“誤解されない”とを天秤にかけて、前者を選択したのだと言える。
初対面でついカッコつけてしまうクセのある人は、相手にさんざん誤解を与えておいて、後々自らのイメージに沿えず苦しむことになる。
かと思えば、わざと嫌われようとして、自分のイヤな面を見せて誤解を誘う人もいる。
自分で作った“本当”と“誤解”の狭間で身動きが取れなくなっている人もいる。
そういえば誤解がなかったら、商売の多くは成り立たないかもしれない。
ふむ。
誤解は欲と関係がありそうだ。
誤解の種を蒔く場面には、なにかしらの下心がある。
誤解が育って自分のところに戻ってきたとき、自分の下心を目の当たりにさせられる。
それで慌てて否定したくなるのかな。
都合の悪いこと・不本意・心外にあたるようなものは、“誤”に仕立て上げたくなるのかな。
根も葉もないところから誤解は生まれない。
根も葉もあるなら、それはあながち誤解でもない。
誤解と呼ばれるものは無数に存在する。
それが本当に誤解かどうかはわからない。