コミュニケーション

英語やコミュニケーションや、英語コミュニケーションについて。

英語が母語のCommunication専攻の大学院生でさえ、「Communicationとは何ぞや」を議論しだしたら、がっつり話し合いをしても答えが出ないのに、“コミュニケーション”という言葉はいとも簡単に日本語に採り入れられた。
カタカナというやつには、「よくわかんなくてOK」という不思議な説得力がある。

特に英語教育においては、まるで語学の重要な一派みたいに扱われて、“コミュニケーション”がもてはやされている。
カタカナの“コミュニケーション”は日本語なので、日本流に多少アレンジするのは構わないが、英語のセンセイ方が”Communication”と“コミュニケーション”を混ぜて使ったりするのはさすがにまずいだろう。

少し極端だけど、日本語の“コミュニケーション”を英訳すると、”speaking”になっちゃうんじゃないかとさえ思う。

そもそも“英語コミュニケーション”って一体なんだ?
いや、英語に限らず、特定の言語のコミュニケーションというのがあるのだろうか。
あちこち拾い読みしてみたけど答えは見つからなかった。

たとえば“日本語コミュニケーション”と言ったって、日本の文化や風習がコミュニケーションに反映されているJapanese-styleということで、つまり“日本的コミュニケーション”のことなのだろう。
たまたま日本語である場合が多いので都合よくうやむやにされているけど、言語の問題ではないはずだ。

それでも広域に散らばっていない日本語のような言語なら、日本文化や日本人と重ねて考えても大きくは外れない。
しかし英語でそれをやるのは強引すぎるだろう。
“英語流コミュニケーション”にしろ、“英語風コミュニケーション”にしろ、何を指しているのかさっぱりわからない。

“アメリカ流”や“国際的”ならしっくり行くのだから、やっぱり言語と切り離して考えないと。
というよりなんでもかんでも言語を母体にするから、おかしな混乱が生じるのだと思う。

母体はコミュニケーション。
言語はそれを助けたり邪魔したりするだけ。
言語がなくてもコミュニケーションは成り立つけど、逆は無理。
まして外国語なんてオマケ以上の価値はない。
英語教育がコミュニケーションを招き入れるというのは、バイトが社長に仕事を与えるぐらいコミカルなことだと思う。
逆だよ、逆。

オマケのためにどれだけのお金と労力をかけますか。
それをちゃんと考えてほしい。

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