エイプリル・フール考

もう結構どうでもよくなっているんだけど、またエイプリル・フールのこと。

エイプリル・フールを日本人がうまく取り入れられないことについて、受け手に用意がないから成立しない、と書いた。
それは確かにそうなのだけど、どうやら仕掛ける側にも問題がありそうだ。

私の理解する限り、エイプリル・フールの目的は欺くことではない。
日本の仕掛人はどうも、騙そう、騙そうとしすぎていると思う。
そして「やーい、ひっかかった」などと低俗な喜び方をするから、騙された側が憤慨する。

そもそも“作り話”というものについて、理解が乏しいように思う。
日本のエイプリル・フールは“嘘”ばかりだ。

作り話は周到な準備を要する。
4/1に向けてアンテナを立ててネタを探し、きちんと裏を取って事実を踏まえて、ヒネリの利いた創作をさらっと混ぜる。
日頃となんら変わらない自然なトーンで、説得力のあるプレゼンテーションをしてみせる。
もちろんツカミもオチも事実のちりばめ方も、綿密に計算されている。
そのくらいしなければ受け手に失礼だろう。

年に1度のエイプリル・フールの裏には、364日分の文脈がある。
教養ある大人の粋な遊び。
だからこそ仕掛人は腕を磨き、わくわくして自信作を披露するのだし、受け手はエンターテイメントとして鑑賞し、騙されることを楽しむ。

クオリティの高い作り話は、他の人の創作意欲を掻き立てる。
よく出来た話は語り継がれ名作として残る。
エイプリル・フールは芸術作品の発表会だ。
文章表現や映像・写真芸術のカリキュラムに組み入れたっていいくらいだ。

そうして皆が4月1日を楽しみに待つ。
エイプリル・フールは愛すべき文化なのだ。
薄っぺらな嘘を吐いてよい日でも、他人を笑い者にして許される日でもない。
「ちくしょう、もう二度とひっかからないぞ」などと思わせてしまったら、来年のオーディエンスが減るではないか。

エイプリル・フールの主役である仕掛人によい作品を提供するようになってもらうと同時に、受け手の方も野暮なまねはやめてほしい。
騙された恥ずかしさを取り繕おうとして、本気で腹を立てたりしたら場がシラケるじゃん。
そういえばマジックを見るときに「種を見破ってやるぞ」と躍起になる人がいるが、あれの何が楽しいのだろうか。

というわけで、日本にエイプリル・フールを入れるのは本当に難しそうだ。
江戸の頃なら上手にやったかなぁ。

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