言語教育

“ことばをつかう”ということについて。

ことばを覚える(習う・身につける)というのは、たとえば単語なら、指でさして名前を教えてもらったり辞書を引いたりして、モノや意味と、それに張りついている呼び方を接着させていく作業だと思う。
文法なども理屈は同じ。

このやり方だけでも、文の単位までなら上手に操作できるようになる。
言語学を根に持つ言語教育では、このことを一生懸命やってきた。
古いタイプの外国語の授業などは、ここまでで十分とされてきた。

同じ言語教育でも国語となると、文を作るだけで満足してはいられない。
書くときも話すときも、文と文の絡み具合や、自分の思いと文の距離を縮める訓練を積まされる。
高校以上の英語教育で重視されてきているのは、ここらへんのことだろうと思う。

さて。
“ことばをつかう”とは。

当たり前すぎて見過ごされているのかもしれないが、ことばを遣うためには、ふたり以上の人間が必要となる。
この時点でもう言語学の範疇ではない。

Aが思いをことばに換え、BはもらったことばからAの思いを推測し、それに基づく思いをことばに載せて返す。
返ってきたことばによりAは、最初に発した自分のことばをBがどう理解したか判断し、同時にBの思いを推測する。
このやりとりを通じて、お互いの理解を近づけ意識をすり合わせていく。

こうした特性からして、ことばを遣うには、面と向かって話すのがいちばん手っ取り早い。

同じことばを発していても、同じように遣われているとは限らない。
遣われたことばに対し、共通の理解があるかどうか確認しなければ、思いが合致しているのか相反しているのか確かめようがない。

繰り返すがこれは言語学の範疇ではなく、むしろ言語学に頼り切っていると、軽視か無視してしまいがちなところだ。
またどうしても時間と労力がかかるので、家庭や学校などでは“忙しい”を理由に、まっさきに削られる。

最近、幼児教育には新しい動きがあって、この面倒くさいひと手間を丁寧に丁寧に追うところがあるようだ。
素晴らしい。
それこそ真の“ゆとり教育”だと思う。

これがしっかりできるようになれば、外国語なんていくらでも遣えるか、きっぱり捨てられるかのどちらかになっていくと思う。

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