Happiness

オンラインのディスカッションで、幸せについて議論中。

モノもお金も力も、究極的には人を幸せにすることができない。
ではどうしたら?
そういうようなこと。

なんやかんや話していたら、Mが国際的なことを持ち出した。
What about those who live in repressive countries and have limited freedoms and cruel governments?
(抑圧された国で自由を制限され、酷い政治に苦しんでいる人たちは?)

「そういう人たちが幸せを知ることができるように、なんとかしなくては」と続く。

あちゃーそれを言っちゃうか、と思った。

このアメリカ的な発想が、あの国へもその国へも首を突っ込んで、余計なことを巻き起こした基になっている。
その無垢な正義感が、最低の評価を与えたはずの現地の政治よりよっぽど残忍に自由を奪うことができるなどとは、想像もしていないのだ。

こうやってガイジンの私がアメリカの奥にうっかり紛れ込んでしまったとき、決断力・瞬発力・発言力・言語力・表現力が一挙に試されている気がする。
こんなときは、アメリカ教に入信できていたらよかったのに、と思う。

長年にわたって国レベルですれ違い続けている考え方が、こんなところで接点を見出すわけがない。
マイケル・ムーアにだってできていない。
だからといって聞こえなかったふりはしたくないが、特攻隊になっても仕方がない。
言論の自由、カッコ苦笑。

慎重に言葉を選び、返信するまでずいぶん時間がかかった。

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