足るを知る、について考え中。
僻地医療や医者偏在のことを聞きかじる機会がたまたま重なったせいだろうか。
もともと欲張りが好みでないせいでもある。
足りないことに満足してしまうと、向上心や努力が失われ、進歩は止まってしまうと言う。
なるほど。
卑屈や怠惰を招くこともあるかもしれない。
が。
恵まれていることを忘れ、ちっぽけなことにこだわり、満たされていてもなお欲しがり続けることほど不幸なことはないとも言う。
ないものをねだり、他人を羨み、手に入れるためには手段を選ばず、得たものはひとり占めして、横取りされないように警戒しているようなのも楽しくなさそうだ。
ふむ。
やっぱり“足る”は知っといた方がよさそうだ。
とりあえず心が落ち着かないことには、前や上に進むことも、他人に分け与えることも難しいだろうからね。
とはいえ、ありもしない“他人の目”に監視されて、“理想の自分”に振り回されているような人には、“足る”を知るチャンスなんてそうそう巡ってこない。
たとえばそういう人を親に持ち、“理想の自分の子”として育てられた人にとっては、見たこともない“足る”を知ることなんてほとんど不可能なのではないだろうか。
一度すべてを取り上げて“足りない”を思い知らせ、そこから再出発させるのはあまりにも酷で不憫だけど、そんな方法しかないのかしら。