このクラスでは、“いろんな私”が邪魔をする。
いまやどちらも主専攻となった教育とコミュニケーション。
後から追加した方に偏っているのは当然のことで、私自身は完全に“コミュニケーション派”。
でも周りは“教育派”と思っているし、実際そういう立場でもある。
が、“言語派”では決してない。
アドバイザーのK教授や姉弟子たち“言語派”と、意見の対立する“コミュニケーション派”のS教授。
私はS教授の言っていることの方がすんなり理解できる。
なのでゼミ生で集まったときに私が感じる違和感を、S教授が代弁してくれているように思うことが多々ある。
では、あるのだけど。
アドバイザーを敵に回すのは得策でないということを、今は知っている。
そうは言ってもイエスマンにはなれないので、反対意見を出さなければならないところもある。
エネルギー的にも効果の面でも、反対する頻度は最小限に抑えることが重要。
少なくとも当分はこうするのがいちばん良いのだ、と言い聞かせている。
ついでに、このクラスには私のクラスの学生が数名混ざっている。
これはなるべく考えないようにしているが、まったく考えないわけにもいかない。
教える人として、なるべく無色・中立でいたいという気持ちがあるので、つい慎重になってしまい、今までのクラスほど自由に発言ができていない。
さらにややこしいことに、今日はネイティブVS非ネイティブの話になった。
私はK教授がこのdichotomyを持ち出すのが大の苦手。
当事者として聞くと不満が生じて反論したくなるので、言語教育関係者の一般的な考え方として聞き流すようにしている。
案の定、“言語派”が援護射撃する。
これも私を不機嫌にさせるのだが意識的にスルーする。
そこへS教授が「待った」をかけ自論を展開した。
うん、わかる。すごくわかる。
するとK教授と“言語派”が猛反論する。
「S教授は非ネイティブのことがわかってない」なんて、失礼千万なことを言う。
私は非ネイティブ。K教授の弟子。
“言語派”が同一視している“教育派”の一員。
その立場でS教授に大いに賛同したい。
アイデンティティの交錯とはこういうことだな。
でも、飲み込んだ。
最終的にはS教授がオトナなまとめをして、“言語派”に花を持たせた。
若気の至りで、“過大な正義感”を振りかざしていた時代はもう過ぎた。
これでいいのだ、と本心から思う。
いいのではあるのだけど、「くっだらねぇことするようになっちまったなぁ」と思うところもまだ少し残っている。