第二言語習得理論の中に、“化石化”という考え方がある。
たとえば発音や文法や語彙などで、正しくないことはわかっていても、指摘や訂正を何度受けても、イヤになるほど練習を重ねても、どうにも直らない間違いのこと。
“現象”という捉え方もあるけど、私は“考え方”だと思っている。
それはさておき。
“化石化”ってのは、言語習得に限ったことでは、たぶんない。
わかっちゃいるけど動かせないことなんて、いろんなところに生息している。
でさ。
思ったんだけど、これには成功体験ってヤツが一枚噛んでるんじゃないかな。
実際に成功していればもちろんのこと、“成功したと勝手に感じた体験”でも十分。
そういう美しい思い出に伴う体験を、忘れたり崩したりするのはとても難しい。
第二言語に話を戻すなら、「間違えたけど通じた」という体験がまったくなかったら、つまり「通じなかった」という苦い体験しか持てないなら、どんなに意固地な人でも、自然と間違えないようになっていくんじゃないだろうか。
新鮮で瑞々しい“成功体験”は、生まれた途端に柔軟性や水分を失いはじめ、“過去の栄光”や“プライド”に変質しやすいという残酷な性質を持つ。
捨てられないから「捨てたもんじゃない」と主張し、時の流れに逆らって、現状維持で乗り切ろうとする。
でも、考古学的価値が認められる場面でもない限り、通用するものではないだろう。
「やった」という思い出はあっていい。
成功したら大いに喜ぼう。
そして、ぴちぴちのプルプルのうちに、惜しげもなくリリースしてしまおう。
もったいないからとただ抱きしめていても、鮮度は落ち、身は硬くなるばかりなのだ。