傷つけ役

選択肢と成長と、コドモとオトナのこと。

コドモの世界では、成長=選択肢を広げることを意味する。
がんばればできることが増える。
あまり好きな例ではないがわかりやすく言えば、勉強をして成績を上げれば上げるほど、入学できる学校が増える、ってなもんだ。

まぁ学校という特殊な環境にいる間はそれでもどうにかなるもので、オトナの世界に入るまでの一時的な措置として、ほとんどの場合、そのままにされている。

オトナの世界の成長は、必ずしも選択肢を広げない。
むしろオトナの成長とは、選択肢を狭めていく作業ではないかと思う。

仕事ができるようになればなるほど、勉強して研鑽を積めば積むほど、「これしかできない」人になっていく。
プロフェッショナルに限ったことではない。
恋愛や結婚だって真面目に取り組めば、そういうふうになってくる。

コドモの発想で、やってみたこともないことをできそうに思う。
できそうだからやってみたいな、と思うことを“夢”というらしく、これは世の中でもてはやされてもいるし、使い道もありそうだ。

同じような構造で、やってみたこともないことを「やればできるだろうけど止めておいている」と言うヤツがいる。

「会社員なんてつまんない仕事やりたくないよ」「私を生かす場所は他にあるはず」などと生意気を言うコドモがいて、さらに厄介なことに
こういう類のコドモの平均年齢がぐんぐん上がってきているように思う。

挫折しないように細心の注意を払う教育では、全力の手前で達成できる目標しか与えない。
それでもできなかったときに備え、言い訳まで用意しておいてやる。
“傷ついたらカワイソウ”だから、「精一杯やってもできない」なんて経験は予めきれいに除去しておいてやるのだ。

社会が順調に回っているうちは、「そのうち気づく時が来るから」と放っておいてもいい。
「いつまでも“何にでもなれる”なんて思うなよ」なんて、言わずに済むなら誰も言いたくはない。

しかし現代のオトナには、コドモの幻想を軌道修正してやるという新しい役割があるように思う。

確かに放っておいても気づく時はやってくる。
だが本当にどうにもならなくなってから、生まれて初めての挫折を知るのは打撃が大きすぎる。
自暴自棄になってしまった体の大きいコドモが、悲劇に巻き込まれていく例はいくらでもある。

「君にはできないことがあるんだよ」と、はっきり教えてやる必要があるんじゃないだろうか。
「そのできないことをやっている人がいるんだよ」と、オトナを尊敬させるべきじゃないだろうか。
「何でもはできないけど何かはできるようになろうね」と導いてやるべきではないだろうか。

運良く自然にオトナになってきた時代の人は、「そんなこと言れなきゃわからないのか」と、まったくバカバカしく思うかもしれないが、相手は新しい時代のコドモなのだ。
性別も職業も居住地も“自由に”変えられて、世界と瞬時につながるような錯覚に陥りやすい時代の生き物なのだ。

オトナのみなさんに考えてみてほしい。

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