大きな音を出して注目を集めるという手法について。
オオカミ少年の場合は“ウソ”だけど、違い・変化・不当・要求など、とにかく水面を荒立ててみんなの気を引こうとする手段がある。
発表するからには聞いてもらえないと意味がないのかもしれないけど、一瞬“ぱーん”と音を出して多くの人がぱっとこっちを見たところで、そのことにも同じくらい意味がないように思う。
たとえば「女性の地位が軽んじられている!これはイカン!」と燃えている人がいる。
動かぬ証拠なんかもあるんだろうし、立派に活動していただいて一向に構わないのだが、果たしてそういう大きい“声”の言うことは現実をきちんと反映できているのだろうか。
私の場合のように、母は主婦をまじめにやっていて、父はそれに大いに感謝しているような家庭で育つと、なかなかその“不公平”を実感することができない。
そんな家庭は極少数派だと言われても、全戸調査するわけにもいかないし、静かな家庭ほど消極的な可能性が高いので、結局カウントされない方に回ってしまい、統計学上は影響をもたらさないかもしれない。
たとえばモノを作る人が「売れなきゃしょうがない、だから水増しでもなんでもしましょう」と言い出したら、本当はもうモノを作る気なんかないんじゃないかと思う。
実際のところ売れているモノの中には、ただ“声”が大きいだけってのもかなり混ざっている。
ナメられてるよなぁ。
たとえば外国語をしゃべる人は、しゃべらない人より“声”が大きい。
これも違うあれも違うと大声を上げれば上げるほど注目される。
でもしょせんは人間同士。
別の種類といえど言葉というものを遣って、しゃべることで何かを起こし、仲良くなったりケンカしたりする。
外国語を使おうと、そうでなかろうと、たいして違いはないと感じている人も結構いるんじゃないだろうか。
世の中には静かに暮らしている人がいて、さほど変化も違いもないこともあって、しかもそれは数的にも意外と多いかもしれない。
“声”は圧倒的に小さくても。
拡声器などを使って“声”を人工的に大きくすれば、売れないはずのモノも売れる。
それはもうわかったよ。
“声”が小さいことは価値を下げない。
営業力が主役の時代が早く終わったらいいのに、と思う。