バイ- とセミ-とが、ごっちゃになってないかな、と思って。
バイリンガルについては専門じゃないので、聞きかじり程度にしか知らないんだけどさ。
Multi-:多 (3+)
Bi-:両 (2)
Mono-:単 (1)
Semi-:半 (0.5)
…に”-lingual”を続けると、言語がいくつできるか、という話になる。
モノにも使うけどここでは人に絞っておく。
日本語でいう『バイリンガル』は、“子どもの頃から”な印象を与えるが、Bilingualは学校で習ってても全然OK。
とにかく2言語ができるようになった人のこと。
Semilingualとは、複数の言語能力を持ち合わせているが、いずれの言語もじゅうぶんに発達せず、思考や細かな感情表現に支障を来たす状態のこと。
乱暴な言い方をすれば、両方できればBilingual。
どれもイマイチだとSemilingual。
本当はそんな簡単な話じゃないんだろうけど。
とにかくこの二つはぱっと見は似ていても、実はまったく別のもの。
ちなみに私はMono-賛成派。
母国語がしっかりできることが何より大事。
なのでMono-に「ひとつしかできない」というネガティブなイメージを当てない。
そりゃたまに便利なこともあるけど、Bi-やMulti-は所詮オマケ。
ただしSemi-はまずい。
で、本題。
日本語になりにくそうだが、Bicultural (バイカルチャー?)という言葉がある。
『バイリンガル』の文化版ね。
あるにはあるんだけど、どうやら-lingualほど意味が確立していない。
以下、私の解釈。
Multicultural:世界のあちこちでなじめる人
Bicultural:2つの文化でどちらにも違和感なく溶け込める人
Monocultural:自国でうまくやっていける人
ここまではいいんだけど、なぜか”Semicultural”という言葉が見当たらない。
文化は最低ひとつくらい身につくとでも?
たとえば自国でも外国でも浮いてしまう“外国カブレ”は、残念ながら実在する。
甘口のコドモ文化から脱却できず、いつまでもオトナに移行できない人もいる。
文化は言語以上に影響力が大きい。
丁寧に浸透させていかないと。
セミリンガルを放っておくと、複雑化する頭と心に言語が追いつかず、内的にも外的にもストレスになる。
バランスを保つため思考を単純なままに留めると、社会的な適応力が年齢にそぐわなくなってくる。
環境としてはバイリンガルと似ているが、バイリンガルが2言語を融合させてより深い思考を発達させていくのに対し、多くのセミリンガルは複数言語の表面を行ったり来たりして、その場をしのぐクセがなかなか抜けない。
これと同じように、セミカルチャーというのはどの文化も深く理解しないままに、ある文化の都合のよいところだけを利用したり、半端な知識を元に特定の文化を批判したりして、結局どの文化でも“身内”として受け入れてもらうことができない。
アイデンティティに揺らぎが生じる。
私が見る限り、言語の学習歴や外国在住期間など、時間的な要素はまったく関係がない。
あっという間に”Bi-/Multi-“にすぅっと入れる人もいれば、何十年も”Semi-“のままという人もいる。
“Semi-“が”Bi-/Multi-“に変化することは、理論上は可能なはずだが、本人の多大な努力を要するため、実際にはたぶんかなり難しい。
つまり一旦”Semi-“になってしまうと後がツライ。
“Semi-“の素質がある人は、なるべく外国語・異文化に触れないで”Mono-“を目標を置いて、じっくりと根を太く張った方がよいと思うのだが、なかなか納得してもらえない。
『国際化』とかいうよくわからないブームに乗せられてSemi-の大量生産をしても、いいことはあまりなさそうなんだけどなぁ。