私は英語が上手くない。
以下、上手くもない私の個人的な見解。
昔っからエライ人が外国語の勉強について、いろんなことを言ってきた。
と言ってもせいぜい50年ぐらい前のことだけど。
歴史浅くてびっくりしない?
第二言語習得界で有名な人の多くは、母国語以外の言語が話せない。
知識は膨大だが使い手としてはイマイチってことだ。
さすがにそれじゃあ説得力がないので、外国語のできる研究者も登場してきたが、市場を牛耳っているのはあいかわらず英語で生まれて育った人たちだ。
アカデミアなんて一般には縁がなさそうに思うけれど、そこでの考えが順々に分配されて、何年も遅れた形で教室に届いているわけだから、決して無関係ではない。
というわけでテキストなどを見ても、『英語のできる強者が、英語のできない弱者に救いの手を差し伸べる』という図式からなかなか抜け出せていない。
失礼な話だ。
最近では出版の垣根が低くなって、ほぼ素人でもオリジナルの勉強法や教材を編み出し、制作・販売まですることができるようになった。
この辺の人たちは自分の成功体験を基に営業トークを展開する。
そちらは自由にやってもらっていいけど、消費者側は慎重に吟味した方がいい。
自分の体験を振り返って正確に記録できる人はそう多くない。
売り物にしている“勉強法”以外に、故意でないとしても隠れている要素がいくらでもある。
もともとの性格や能力、環境などをすべて“成功者”と一致させた上であれば、話は別かもしれないけど。
名選手と名監督は別人物、ってよくあるよね。
「同じようにすれば大丈夫ですよ!」より、「私には似合わないけどお客さんにはぴったりですよ」と売る方がむしろ説得力があるような気がするが、そういうのは流行っていないようだ。
とにかく、新しい方法がとっかえひっかえ脚光を浴びる。
共通しているのは“英語が上手くなる”という目標。
さて。
残念なお知らせだが、日本人は今後どう頑張っても、英語の上手い民族にはならない。
必要がないのだから。
“必要ない言語が上手くなった”なんていうのは、勘違いか奇跡のどちらかだ。
と聞いて、「そんじゃあ止めた」と諦めるのも賢い選択。
止めて困らないものは止めよう。
止めるとなったらきっぱり手を引こう。
趣味で上手くなるほど甘くはない。
早くからやりゃあいいってもんでもない。
私は英語が上手くないし、上手くなる予定もない。
必要なのに上手くならないとは、我ながらかわいそうだと思うが仕方がない。
辞書がなければ読めない書けないだし、もっとペラペラしゃべれたらなぁと落ち込む日は数え切れないほどある。
自慢じゃないが凹む回数や度合いは、そんじょそこらの学習者に負けない。
それでも私の英語は通じる。
“通じる”でよかったら、ありえない偶然をいっぱい重ねなくても、ひと握りの特別な人でなくてもできるようになる。
だって“言葉が通じた”経験はあるんだから。
ちなみに私はラッキーヒット型で、基礎体力や素振りなどの地道な練習が欠けている。
上手くなる流で来た人は努力を積んでいるので、私よりもっとスムーズに通じるようになっても全然おかしくない。
英語が上手くはならないが、日本人は上手にメッセージを伝えることができる。
しかもおもしろいことを。
これを表に出さずにいるのはもったいない。