Premise

ノーベル賞受賞者と、プロゴルファーのこと。

ノーベル賞を受賞した日本人たちが
「自分は頭はよくないが時間だけはかけた」
「運がよかった」
「師や仲間に恵まれた」
というようなことを言う。

絶対に、絶ッッ対に頭がいいのに。
少なくとも、頭“も”いいのに。
だってノーベル賞だよ?

まだその記憶が新しいうちに、今度は90年代に生まれた青年がツアー優勝しておいて、「僕はうまくない」と言った。
絶対に、絶ぇぇっっっ対に、うまいに決まってんじゃん。

でもご本人たちは本気でそう思っているんだから、しょうがない。

異論反論はあるだろうけど、日本の中にはこれを「謙虚だなぁ」「えらいねぇ」と静かに受け取れる人がいると思う。
ひょっとしたらたくさん、いる。

ある文化の中の人たちが『なんとなくそう思う』ことや『なんでかって聞かれても困るけど、だいたいそういうふうになっている』ことをShared premisesという。
Shared premisesは“適切・不適切”の基準にもなるので、これにそぐわないことがあると、『いかがなものか』『それはないんじゃない』『なんだかいけ好かない』と感じる。

この“感じ”はものすごく大事なことだと思う。
あまりにも当たり前で説明ができないので、カガクテキとかいう審査で落とされがちだが、実は説明がつかないことこそが特徴なのだからカガクテキで審査することがおかしい。

Shared premisesは文化をまたぐと解釈が変わる。
ノーベル賞受賞者やプロゴルファーの自信なさげな発言は、別の文化では嘘とみなされたり、不審に思われたりするかもしれない。
偶然にも彼らは世界でも活躍しているので、混乱を避けるため表現を変えることもあるかもしれない。

ある人がある発言をするとき、その人はその発言によって相手にどんな印象を与えるか想像することができる。
いつもというわけではないが、影響力の大きい場面では特に意識しやすい。
特別な意図がない限り、聞いた人の多くが不可解に思うような発言をわざわざ選んだりはしない。
つまり、聞き手が自分と同じPremisesをシェアしていると踏んで「伝わるだろう」と思って発言している可能性が高い。
で、結果的に伝わらないことがある。

最近、たとえばメダリストなどの発言が論議を呼ぶのは、Shared premisesに揺れが生じてきている現れではないかと思う。

メダルを取っているんだから強いのは周知の事実。
その人が「自分は強い」と発言することに対し、ファンが増える一方で反発も根強い。
世代とか時代とかのせいだけじゃない。

必要とあらばPremisesは変わるのだ。
それは、反抗による破壊の形をとることもある。

国際化だか多様化だかのおかげで、「どうも気に入らないけど時代の流れだから」と、Shared premisesに反することを無理に受け入れようとする風潮がある。
そうやって受け入れること自体がShareされつつある。
不自然を、不自然に自然にする。

本能で感じることは自然に近い。
自然は人間よりずっと正しい。
なのにわざわざそれを打ち消して、もっともらしい理由を後からつけて「自然」に仕立てて受け入れる。

動物は毒だと知らずに食べてしまうことはあるけど、食べたら体に悪いと知りながら手を出すことはしない。
人間の、この選択にはよほど特別な事情があるのだろう。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。