Assumption

はず”をもうちょっと考える。

どうやら同一文化内のコミュニケーションは、かなり複雑なようだ。
「じゃあ異文化はもっと大変だ」と思うのも無理はない。

“文化”をどう定義するかはちょっと置いといて、わっかりやすい異文化を想定してみる。
たとえば言語が異なる場合。
ことばが通じなかったら、コミュニケーションはどうなる?

人間関係とコミュニケーションを考えたとき、キーワードは“はず”だった。

言語を共有しない相手に期待する“はず”は、同一言語を話す相手に対する“はず”より少ない。
それどころか“はずない”が幅を利かせることも。
これはコミュニケーション上、かなり好都合なのではないか。

“はず”に頼らず、さらに言語もアテにできないとなれば、自然とコミュニケーションは注意深く慎重に行われる。
同一文化内ではテレパシーが働いてもさほど驚かないくせに、異文化間ではズレが生じて当たり前。
だからうまく意図が伝わった時の喜びが大きい。
“はず”が崩れて喜びにつながるのは、同一文化内ではちょっと考えにくい。

外国語習得に楽しさがあるとすれば、こうした“前提が変化した瞬間”に関係がありそうだ。
事態が変化(好転)したのは、自分が勝手に用意した“はずない”が棄却されたためで、実は言語能力的には何も変わっていないかもしれない。
“はず”に影響を与えた要素は他にもあるのに、なぜか言語がすべての手柄を独り占めしてしまうことが多い。
語学力だけが変化した(伸びた)ように錯覚するのだ。
ちなみにこの錯覚を利用しない手はないので、学習者は積極的にどんどん騙された方がいいと私は思っている。

もちろん付き合いが長く深くなれば“はず”が現れてくるのは異文化間でも同じで、親密度を反映する“はず”である。
こうなるともう異文化かどうかはどうでもいい。
いざこざが起きた時「やっぱりガイジンだからな」と言ってみても、本当は原因が別にあるのを知っている。
ついでにこの頃には言語でのコミュニケーションも、そこそこできるようになっている。

卵が先かヒヨコが先か?
ともかく“はず”の存在は重要だ。

ガイジンや新天地が快適なタイプの人は、ひょっとしたら“はず”を強く意識しているのかも。
異文化での“はず”は少ない上に覆しやすいので、同一文化内で煩わしさを感じやすい人には都合がいい。

「私は人に期待しない」とかさみしいことを言う人もいるが、“はず”で痛い目に遭ったのだとすると気の毒だ。
確かに距離を置いて“はず”を最小限に留めておくと、がっかりすることやケンカは減る。
一方、親しみを感じるごとに“はず”は増えていき、コミュニケーションをする以上、“はず”を確認し合わないようにするのは不自然でとても難しい。
“はず”抜きでコミュニケーションが許されるのは、異文化+出会い頭のような特殊なケースに限られる。
となるとコミュニケーションを絶つという選択肢が浮かぶが、これは解決策としてあまり望ましくない。

ずっと私に付きまとっているステレオタイプの謎も、“はず”をヒントに説明がつきそうな気がするのだが、これはまだ考え中。

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