美学

身を引く、について。

個人の利益より、集団の利益を優先させる文化がある。
そこでは“居座って利をかき集める”より、“身を引く”ことが重んじられる。

集団を守るために個人が犠牲になることは、致し方ないし、歓迎されるべきだし、なにより尊いことなのだ。

ただしこれは集団に所属する個人たち全員に共通の見解がないと、内部に損得が発生するだけで、結局は集団全体に良い結果をもたらさない。
“身を引く”ことで残そうとしている何かが残ってくれないのだ。

個人の利益を追求するガイジンには、“頼みもしないのに”“そっちの希望で”いなくなる者のことが本当には理解できない。
どんな思いで決断を下したか察する能力もないし、「イヤならしなけりゃいいじゃん」と一蹴されるまでだ。
「そうなんだー寂しくなるよー」などと言いつつ、「こいつが消えた後、風向きがどう変わるか?」をしたたかに考えて始めているかもしれないのだ。

神様とでさえ個人契約だと思っている文化では、“身を引く”ことはあきらめであり挫折でありloserのすることなのだ。
quitには日本人が思うほどの潔さはないし、be firedには意外と絶望感が伴わない。

どちらが良いとか悪いとかじゃないのだろう。
好みが分かれるだけ。

そういえば国際化が進んで、日本人は“地球の一員”という意識が強くなってきた。
地球という集団のために、国を挙げて“身を引く”場面も多くなってきている。
でも同じ地球の上に、その意味さえわからないガイジンが住んでいたら?

「何だか知らないけど得したなぁ」という程度ですぐに忘れ去られてしまうとしたら?
ありがたがられるのが目的ではない。
だから気づかれなくたっていい。
その心意気はとても美しいけれど、それが望んだように機能しないのなら、“集団のために”方向転換が必要かもしれない。

みっともなくても下品でも、時にはがめつく利を奪い取ってしつこくしがみついていられるようにならないといけないのかなぁ。

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