シロートが活字を使うようになって、ことばの難易度が上がったと思う。
手書きの文字には人柄が自然と映るけれど、タイプした文字列ではそれがない。
それでもどうにか探ろうとするもので。
たとえばメールに“人間”を見ようとすると、フォントや絵文字、改行などのレイアウトがヒントになるだろうか。
実はこれはアートに近い好みの問題で、読み手と書き手の相性が関わってくるので、そもそも道具としてフェアじゃない気がする。
コドモがいろんな方法を模索・発明しているのも、そういう必要に迫られた苦肉の策なのではないか。
自然に現れてこないから工夫するしかない。
受ける側もそれを“読んで”やらなければならない。
そのうえ量は膨大でスピードが要求される。
彼らの未熟なことば力に対して、あまりにも負荷が大きいような気がする。
色や絵の助けがほしくなるのは、ことば選びと読み取りの難しさが限界に達している現れではないかと思う。
ことばではどうにもできなくて、苦しくてもどかしくて、ことばの外へ出ていく。
その場しのぎでも、少なくとも一息つける。
逆に言えば定型の無味乾燥なフォームに、淡々と文章をタイプしていくというのは、無菌室で培養実験を行うようなもので、純粋にことばの力を鍛えるには最適な訓練かもしれない。
このブログは私専用のジムみたいなものだ。
書く、という筋トレ。