言い訳

“言い訳”や“ウソ”について、まだボンヤリな考え。

会話分析のクラスで“言い訳”を扱った時、私はこの類を全部“ウソ”と同じように感じていることに気づいた。
(ここでは仮にAccount=“釈明”でまとめておく。)

ディスカッションに先立って毎週提出するレポートにも、「言い訳とウソの見分けがつかない」と書いた。
そして、「いずれにせよ、この類の行為は好きじゃないので自分はしたくないし、相手にも望まない」とも書いた。

クラスに行き、この立場は受け入れられていないというか、少なくともごく少数派であることがわかった。

たとえば“遅刻をした時の釈明”を創作するとなれば、みんなが口々に例を出す。
「時計が止まっていた」「渋滞にひっかかった」「出かける直前に人が訪ねてきた」
多国籍なクラスメートが笑ったりうなづいたりしている。
こういうのは文化や国境を越えているらしい。

ちなみにいちばん支持されたのは「ガソリンが切れた」。
日本だったら「電車が遅れた」かな。

でも私は積極的に申し出はしないなぁ。
大事なのは「遅刻した」という事実と、「それで、どうするか」という事後対処であって、「どうして遅刻したか」と問われれば“理由”はあるのだろうけれど、あえて伝える意味があるかどうかは疑問。

待たされた側の立場でもまったく同じで、誠実な謝罪さえあればもう十分で、“釈明”の部分には興味がない。
「それはいいから」とか「そんなことより」とか思ってしまう。

腑に落ちないまま議論を聞いていると、どうやら“釈明”を構成する要素はずいぶん限定されているし、相手が理解・共感できるように、場や内容に応じて複雑で微妙なひと工夫を加えていることがわかってきた。

構造としてはおもしろいけれど、やっぱりその“ひと工夫”の部分が好きじゃない。
自己都合以外の何者でもない。
“理由”であれば自分に不利な場合でも、そのまま正々堂々と言えるはず。

“釈明”をする理由は「信用を失うというリスクを避けるため」。
ふむ。そうだろうな。
で、私はそのリスクを厭わない。
だって現に遅刻しているんだから、私の信用はすでに落ちていて、「その後どう挽回するか」でしょう?
そういえばレポートには「“釈明”が名誉回復の役に立つとは思えない」とも書いた。

ところが「“釈明”は相手にも期待されている」という展開になった。
“釈明”によって最悪の事態(絶縁など)を共同で避けることができる、という。

え?そうなの?
だとすると「私は好きじゃないからしません」では通らないこともありそうだ。

「“釈明”もしない」というのは、ふてぶてしいと映るかもしれない。

一方で“釈明”をよくする人のことを考える。
この人たちは、ひょっとしたら私が“釈明”を聞き流して本題に入りたがるのを不快に思っているかもしれない。

この鏡な現象は、私が「“釈明”しない人を高く評価する」ことからも納得がいく。

ということは、社会的には相手に応じて“釈明”を積極的に提示したり、相手の“釈明”を取り立てて認めてみせることが必要なのかもしれない。

んんんー。

“お世辞”や“愛想笑い”と同等のめんどくさい課題だなぁ。

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