Discussionの上手い下手について考える。
今ちょうど“コミュニティとしての学習者”をテーマにDiscussionをしている。
で、その進行とともに、参加者がコミュニティを築くようになっている。
仕組まれている、というと聞こえが悪いが、まぁ“メタ教育”みたいなこと?
そういえば、この1年余りの間、ほとんど毎日Discussionに参加していることに気づいた。
恐ろしい。
日本人は議論が下手だといわれる。
その原因は主張しないからだと信じられていて、意見をガツンと言えば議論が上手になると思い込んでいた。
最近の日本人はずいぶん言いたいことが言えるようになった。
活発な発言の場も増えた。
しかし、あいかわらず議論が下手。
平行線に亀裂が生じ憤慨して立ち去るか、“荒らし”みたいなのが入って元のテーマから大きく逸れていくか。
いずれにしても終わり方が清々しくない。
Discussionは気持ちよく終わることもできるはずだが、それは議論としては物足りなく、“実がない”と思われてしまうかもしれない。
無駄な発言などない。
なので個々の発言の質は問わない。
議論も滑り出しはたいていDiscussionと変わらない。
必ずしも決着をつける必要はないのに、議論の場ではなぜか論破することを目的にしている人がいる。
そういう人がいると収拾がつかなくなる。
だんだん勝ち負けみたいになってくるのだけど、Debateほど論理が確立していない。
そのうち感情的になってArgumentの理屈抜き、というか、要するに口ゲンカみたいなことになる。
“水掛け論”。
問題はコミュニティ意識の欠落ではないかと思う。
Discussionでは答えの出ないものを話し合うことが多いので、話し合いそのものの経過を大事にする。
参加者全員で作り上げていく。
だから発言はContributionと呼ばれる。
この部分、どうなんだろう。
こういう考えはどうかな。
なるほどね。でもこれはどう?
んーそれは違うんじゃない?
そう?私はいいと思うけど。
なんで?理由を聞かせて?
急展開させないで、揉みこみながら、練り上げながら、全体を少しずつ広げていく。
だからこの共同作業に貢献しないという意味で、沈黙も自分の主張を押し通そうとするのも、参加者の姿勢として正しくない。
Discussionでは入口と出口で、まったく違う意見になることも珍しくない。
決して捻じ曲げられるのではない。
その変化はDiscussionに参加した意義であり、発見であり自分の成長でもある。
“基本的にみんな違う”の国と、“基本的にみんな同じ”の国で、話し合い方が異なるのは仕方がないかなぁ。