言語学の授業で、“言語とアイデンティティ”というディスカッションが続いている。
コミュニケーションのクラスでもちょうど“アイデンティティ”に入った。
どうも内容がかぶりがちなので、授業というのはそれぞれが関連するものなのかと思ったが、普通はそうではないらしい。
「どういう授業を選択したらそうなる?」と聞かれても、初めての学期でたまたまそうなったとしか答えようがない。
テーマの元になっているのは、移民が職場で母語を使うことを禁止され、解雇されたという記事。
「外国語でセクハラを受けた」と職場側が訴え、誤解を立証できず職場側が勝訴。
移民側は「母語を禁じられるのはアデンティティを否定されるようなもの」と反発。
クラスの中でも、旧ソ連出身者は思いに通じるところがあるようだ。
アメリカ側は“職場の調和”を強調。
マイケル・ムーアの示す”fear“を思い出す。
韓国人は「同郷人が英語で話すなんて不自然」。
う~ん。
残念だけど職場側勝訴は致し方ない。
ここはアメリカ合衆国。
よそ者がわけのわからない言葉をしゃべっていたら、悪巧みをしていると思われても仕方がない。
それを知っててあらぬ容疑を自ら招くのはいかがなものか。
移民の英語レベルにもよるが、「母語をしゃべって何が悪い」という態度はよくない。
そのために英語教育があるんじゃないか。
ただし万国共通と思うなかれ。
きっと日本ならこうはならない。
“ガイジン”が母語をしゃべっているだけでびくびくしたりするのもいかがなものか。
という発言をしたら教授が、「在日中国人や韓国人は?アイヌの問題は?」と振ってきた。
歴史認識や外国人犯罪に対する報道姿勢が原因で、個人レベルでの偏見はあっても、職場で母語を話したからといって即クビにしたりしない。
これはルールの問題ではなく、一般の人の“ガイジン”観の違いだと思う。
アイヌについては、差別の歴史がありアイヌ人自ら、アイヌ語を後世に伝えないように努めてしまった。
結果、アイヌ語人口は減ったが、最近になって研究者などを中心に見直され、アイヌ語が話せることを隠していた人もいることがわかり、保存・存続の方向に向かっている。
というようなことを言ったら、「おもしろい(fascinating)!学期末の論文のテーマにいいんじゃないか?」という展開になってしまった。
…思ってもみなかった。
どうかなぁ。おもしろいかなぁ。
<追記
結局このテーマで書くことになりました。
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