ステレオタイプは苦手ワードだが、アイデンティティは大丈夫らしい。
コミュニケーションの授業は“民族”のレポート提出をもってひと区切り。
今週からテーマが“アイデンティティ”になった。
さて、「あなたは誰ですか?」
“me, me, me”の国の人は、“信念”とか“意思”とか“感情”を持った「個」だという。
そう来ると思ったよ。
私は他人は語れないのだが、自分はわりと抵抗なく語れる。
「私はある集団の一部です。」
私の考えるアイデンティティは、“他との位置関係”。
「他」をなくして自分のアイデンティティは成立しない。
親がいるから子として存在し、生徒を持って教師になれる。
外国人と出会って日本人を実感する。
これが教授の考えにたまたまヒット。
「アイデンティティは社会的役割にすぎない」。
「だからアイデンティティに感情はない」という意見にうなづいたら、猛反論をくらった。
「他人に自分の存在を決められるなんて考えられない」
「社会的役割は自分の感情に従って選択するもの」
「自由が奪われる」などなど。
アっメリっカじ~ん!!
白紙に自分の家を描いただけでは地図にならない。
アイデンティティとはそういうことだ。
適切な訳語がないせいか、日本の人はこの地図が描けないと思いこんでいるかもしれない。
私はそうは思わない。
描き慣れていないだけだ。
もちろん“家”に住むのはひとりぼっちでなくていい。
どの家も重なったりするはずがない。
取り合ったりしなくていい。
シワ寄せができるのは、誰かが家を大きく描きすぎるから。
紙が足りなくなっているのにまだ気づかないのだろうか。
>白紙に自分の家を描いただけでは地図にならない。
>アイデンティティとはそういうことだ。
このたとえ、すっごくわかりやすいと思う。
アっメリっカじ~ん達にも言ってみた?あんまし受け入れないかな?
>acha
“アっメリっカじ~ん”は論破して黙らせるより
引き出して観察する方が自分のためになりそうよ。
Politically Correctの議論の時も思ったとおりの展開で
笑いそうになったよ。本気なんだもん。