オフィスアワー

大学教授は週に何時間か、学生が訪問できる時間(office hours)を設けることが義務づけられている。

授業の質問を含め、教授に用事がある場合は、この時間に合わせて訪問するか、アポを取らなければならない。

昨日のコミュニケーションの授業で、どうも腑に落ちないことがあった。

テーマは「民族性(ethinicity)」。
これまで議題になった論文は、「異文化間のコミュニケーション」に絞られており、異なる習慣や言葉を持つ人(つまり外国人)が、異文化でいかにコミュニケーションをとろうとするか、どんな誤解がなぜ生じるか、ネイティブはどんな反応を示すか…というようなことを議論してきた。

今回の論文は、「民族性という概念自体が疑問」という立場。

「そこに生まれた以上、民族性を度外視するなんて不可能。どんな時も民族性はついて回り、相手(interlocutor)も常にそれを意識している」という“固定(fixed)派”と、「常に民族性を意識しているとは言えない。話題や状況によっては民族性と無関係の行動をとる場合がある」という“遊動(unstable)派”に分かれた。

ところで議論の中に何度となく“既成概念(stereotype)”が出てくる。
意味がよくわからなくて長年悩まされている、私の苦手ワードのひとつだ。

みんながあまりにも簡単に“既成概念”を基に民族性を語っているので、どんどん混乱してきた。

終盤、S教授に「えらく静かにしてますがどうですか?」と水を向けられた。
「とても混乱してきました」と答えた。

アパートに帰ってRに意見を求めたら、「既成概念がないってことは偏見もないから、いいんじゃない?」と言う。

今日はオフィスアワーにS教授を訪ねてみた。
「さて、どんな助け舟が出せるかな」と言って、イスを勧められた。

“既成概念”がそもそも個人によって異なることや、例外・誤解が多々あること、情報や経験によって変化していくこと、その材料として“民族性”は人種や言語、宗教などと並んで大いに影響する…というようなことはわかった。

では既成概念を持たないことはあり得ますか?

S教授は「私はその可能性は否定するね」と言う。
ふむ。

たとえば個人のレベルで言うと、私は第一印象を持てない(と思っている)。
たった1回会っただけなどという少量の情報では、印象を組み立てることができない。
同様に民族に関しても、たった数人を知ったり数冊の本を読んだだけの情報で概念を組み立てることはできない。
…と思うんだけど。

「では“日本人について”では?」と聞かれたので、それは逆に持っている情報が多すぎて、ひとくくりに(simplify)できない、と答えた。

S教授によると、「ちょっと考えすぎ(overinterpret)じゃないかな」と。

「世の中にはあまりにも多くの人や文化や考えがあって、ひとつひとつ個別に語っていくことができない場合がある。
そのために無理は承知でひとまず一般化して、既成概念と呼ぶことにする。
それぞれの状況で、ある人の行動と既成概念との距離(how close)を測り、そこで初めて個別に語ることができるようになる。
既成概念は正負両面あるが、基準としては便利なものだよ」。

なんとなくわかった。
ような気がする。

「休み中にまた混乱してきたらメールしなさい」という言葉にお礼を言ってオフィスを出た。

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