Interpretability

意味のわかる会話、意味のわからない会話について、つらつらと考えてみる。

もうちょっと書きようがあるだろうとは思うんだけど、この“考え中”な感じのまま書き留めておきたい気分なんだな。
おいおい整えるとして、今日はぐちゃぐちゃのまま、行こう。

日本語では「意味がわかる・わからない」というのが伝わりやすい気がするが、英語でいうなら Easily interpretable vs. Hardly interpretable かな。
たとえば2人で会話していて、その人たちがお互いに何を言っているかわかっていれば、それは「意味がわかる会話」。
ある会話がまるごと「意味がわかる」というのは珍しくないが、終始一貫「意味がわからない」というのは考えにくい。
「意味がわからない会話」は、少なくともその一部に「意味がわかる」が含まれている。
だから、Easily vs. Hardly なんだよな。

2人のうち1人が外国語を使っているなど、言語的な相違が起きやすい場面での会話ではなくて、2人とも母語話者というような場面を考えている。
日本人同士が日本語でしゃべっていても、意味がわかったり、わからなかったりするじゃん?

「意味がわかる会話」は、話し手が自分の言っていることの意味をわかっていて、その意味が聞き手に伝わっている場合。
単純な例は、「Aさんが尋ねる→Bさんが答える」などのadjacency pairが成立して、相互理解に至ったとき。
そういう会話は、会話をしている本人たちにとって「意味がわかる」し、たとえばそれを録音して第三者が聞いてもやっぱり「意味がわかる」。
内容がわかるかどうか、あるいは賛成できるかどうかとは関係がないので、たとえば「一方の言ったことが、他方には理解/納得できない」となって、ケンカ別れになったとしても、それはやっぱり「意味がわかる会話」である。
意味がわかっているからこそ、疑問を呈したり反論したりできるわけで。
その観点からすると、ちょっと慎重に取り扱えば、誤解や解釈の食い違う場面も、ここに含むことができそう。

たとえば会話を録音して聞き直したとき、話し手本人は自分の言ったことを基本的に理解でき、発言にある程度の責任を持つことができる。
言い間違いや聞き間違いがあれば指摘でき、それらを解消することもできる。
「意味がわかる会話」は情報交換や議論など、なんらかの形に分類することができる。
会話の前と後とでは、知らなかったことを知る、喜怒哀楽を伴うなど、認知や感情において、まあ結構はっきりした変化が起きることが多い。

一方、「意味がわからない会話」は、聞き手には話し手が何を言っているのかわからないのだけど、「わからない」ということを積極的に示さずやり過ごして終わる会話。
聞き手が説明を求めたり、自分が咀嚼した内容を開示したりしない理由は、たぶんそれをやっても良いことが起きないから。
あまり波風の立たなそうな例として、たとえば酔っぱらいが管を巻いているような場面、としておこうか。
根拠のないこと、何が何だかわからないことを問いただしても、まあ実りはないし、空気が悪くなる。
で、愛想笑いでもして聞き流す。

たとえば会話を録音して聞き直したとき、話し手本人は自分の言ったことを理解できないかもしれず、発言に責任を持とうとしないことが考えられる。
間違いを修正する程度ではどうにもならず、「全面的に撤回して、最初からやり直し」ってなことになる。
「意味がわからない会話」は、これといった形にまとまらない。
会話の前と後とでは、変化は特に起きないか、起きたとしても微弱で確認しにくい。

「意味がわかる会話」を好む人は「意味がわからない会話」が苦手で、「意味がわからない会話」を好む人は「意味がわかる会話」を求めない。
「わかる」派の人は「意味がわからない会話」を遮ったり、短く切り上げたり、話題を変えたりなど、「わからない」が生まれるのを阻止しようとする。
「わからない」派の人は「意味がわかる会話」をどうこうしようとはしないけど、「わかる」派が力説するほど価値があるとは思えないし、どっちでもいい。

それでつい「わかる」派は、「わかる」者同士で集まって「意味がわかる会話」ばっかりするようになり、「わからない」派は、わからなくても気にしない者同士で集まって、「意味がわからない会話」を楽しむ。
「理論派と感覚派」「几帳面と大雑把」ぐらいの対等な関係で棲み分けができていて、それぞれ干渉しないでいられるうちはいい。
両派の交わりが多くなって、「理路整然vs.支離滅裂」の異種格闘技戦みたいなことになって、たとえば一方が知的に高度で他方がそうじゃないとか、一方がカッコ良く他方がカッコ悪いってなことになってくると、ひょっこり、上下や優劣が顔を出す。

「意味がわからない会話」は他愛がなく、生産性が低く、まあ、見ようによっては無駄でしかない。
そのため、“異種格闘技”になった場合、「わかる」にやり込められてしまうことが多い。
「わかる」が「わからない」をどんどん攻めて、追い込んで、「これでいいね?」「…は、はい」とやや強引なコンセンサスを取りながら、「わからない」を「わかる」に容赦なく塗り替えていく。

かくいう私は、ここまで読んでいる人には説明不要だろうけど、「わかる」側の人である。
研究者など、「わかる」派ばかりで集まる場もなくはないが、幸いなことに、日頃は周囲を「わかる」派だけで固めてしまうことにはならずに済んでいる。
ただ、「わからない」が混ざっている場面では、気がつくとこまめに「わからない」を「わかる」に塗り替えてしまっている。
そのとき、たぶん、威圧感みたいなものも出ちゃってる。
悪気はないんだけど。
そして「わからない」側も、塗り替えられたことに対してさほど気を悪くしていない様子ではあるんだけど。
「なんだか、ちょっとよくない」と思うようになってきた。

だってさ。
「理路整然」も「支離滅裂」も、見た目からして明らかに押しの強い、ガチガチの四字熟語なわけよ。
“異種格闘技”は、最初から「わかる」に圧倒的有利な、フェアじゃない戦いになっている。
そもそも「わからない」には戦う気もないんだし。
「戦う気のない相手を無理やり自分の土俵にあげてやり込めて、相手が折れたり呑み込んだりして場を収めたことも知らずに、勝った気になって悦に入ってる」って、かなりダサい。

「意味がわからない会話」の良さが、私にはまだよくわからない。
でも、たとえばすべての「わからない」が「わかる」に塗り替えられていいわけないよな。
「わかる」派は、もっと「わからない」に対する耐性を身につけて、「わからない」を残すように努める必要があるんだ。
他愛がなくても、生産性が低くても、無駄でも、正しくなくても、無責任でも、いいの。
ふんわり、やさしく、なんとなく。
「わからないのに成立している」という、奇跡のような、ぎりぎりのはかない美しさ。
そういうことが、これからの私には大事になってくる気がする。

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