英語とアイデンティティー

ある会話をきっかけに、考えた。
英語とアイデンティティーについて。

「言語とアイデンティティー」というと、通常はジェンダー、宗教、民族、人種など社会的な話になるんだけど、そうじゃなくて。

日本生まれ、日本育ちの日本語母語話者の中には「英語=自分のアイデンティティー」という人がいる。
その中にもいろんな種類があるのだろうから詳しくはわからないけど、たとえば「『あぁ、XXさんって、あの英語ペラペラの人ね』と言われる」とか、「英語を軸に進路を決めてきた」とか、そんな感じかしら。
「私といえば、英語」。
人生、日々の生活、生きがいなど、いろんな意味で自らのLifeが英語と切っても切れないものになっている、ということだろう。
「英語のないLifeなど、考えられない」と思っている。

一方で、日本生まれ、日本育ちの日本語母語話者の中には「英語=自分のアイデンティティーを脅かすもの」という人もいる。
たとえば、「英語を含む学校の勉強全般が苦手で、学問と関係の薄い職業で成功している人」とか、「自分よりペラペラの子どもや生徒、部下などを持つ人」とかかな。
「英語だけは勘弁してくれ」。
興味深いことに、「学問全般が得意で、特に日本語(国語)が大得意」という人ほど、英語によってアイデンティティーが脅かされると感じていたりして、「知の巨人・英語抜き」みたいなことが起こりうる。
「英語は自分のLifeと関係ないし、なくて結構」と思っている。

本来、アイデンティティーと好き嫌いとは関わらなくていい気がするのだが、やはり人間の感情というのはそうさっぱりとはいかないのだろう。
「英語=自分のアイデンティティー」の人は英語が好きで、「英語=自分のアイデンティティーを脅かすもの」の人は英語が嫌い、という場合が多い。
ま、「私そのもの」と思っている対象に好感を抱くのは悪いことじゃないし、「自らを脅かすものを好きになれ」と言ったって、そりゃ無理だろうしね。

いや、だからさ。
そんな大げさに考えなくていいんじゃないの?と思ったわけよ。

「言語とアイデンティティー」の議論は、やっぱり社会や思想、人々のLifeに深く関わる文脈が似合う。
たとえばアメリカのESLを考えても、アジアやアフリカの英語教育を考えても、彼らにとっては英語ができるかできないかが、自分や家族や子孫の生活、人生、命の行く末を大きく変える。
だから必死に学ぶ。
あるいは英語モノリンガルが自らのルーツをたどり、自分の知らない言語を話す人の血を受け継いでいることを知る。
多様で雑多な中にこそ生まれる孤独感から、言語によるつながりを求めてもがく。

…てなことを踏まえると、だよ。
こう言っちゃなんだけど、日本生まれ、日本育ちの日本語母語話者にとって、英語なんて、わりとどうでもよくない?
「アイデンティティー」とか「アイデンティティーを脅かす」とか、そこまで行かなくていいんじゃないかなぁ。
溺愛も毛嫌いも、どっちも熱が高すぎる。
極端。

英語ができるってだけで、別に偉くはないし。
できないからって、別に悲観することでもないし。
英語/外国語と日本語/母語/国語は仲良くした方がいいし。

あんまり大きく捉えすぎると、肩に力が入っちゃって、からまわってからまっちゃうからさ。
好きでも嫌いでもいいのよ。
やるならやるし、やんないならやんないで、いいのよ。
「やる」っていうなら付き合うし、「やんない」っていうなら押し売りはしないよ。
大したこっちゃないんだから。

そういうほわんとした感じで、ゆるーく学習していくと、意外となんとなくできるようになったりするんじゃないのかなぁ。
そんな感じで英語が使えるようになった人の方が、世界の人たちに愛されそうだしさ。

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