教育

日本の教育のこと。

音楽教育と体罰が話題になっている。
この問題について、私はリアルタイムでは知らず、音楽関係の知人の個人的意見を読んで知り、後追いでニュースや記事や、ワイドショー的なコメント、一般の人たちの反応を見聞きした。

ま、音楽および芸術については、私にはまったくわからないので、わかる人たちで議論していただくとして。
うーむ。
私が気になったのは、主催で、教育のプロであるはずの組織のほう。

メディア経由の情報でしかないが(参照1 参照2)、この出来事に対して該当の組織は「行き過ぎた指導」という認識のもと、「とりあえず話し合う」「今後は改めていただくようお伝えする」、でもひとまず「これまでどおりでよろしくお願いしたい」という対応をしているように見受けられる。

このプロジェクトには、錚々たる顔ぶれの芸術家たちが関わっている(参照)。
子どものうちに本物に触れ、体験することには大きな意義がある。
門戸を開き、風通しをよくして、さまざまな分野の専門家に関わってもらうという趣旨だろうか。

一方、プロジェクトの主催としては、知名度も、お金も、お付き合いも、大事。
ゼロから築き上げ、ここまでこぎつけるのは並大抵のことじゃない。
いったん失うと、取り戻すのは大変。
協力者や諸先輩方が積み上げてきたものを、自分の代で崩壊させるわけにはいかない。
穏便に、粛々と、なるべく波風立てずに伝統を受け継ぎたい。

うん、わからなくはないよ。
でも、それは教育じゃないよね。

教育に真面目に携わる人の多くは、人に対して優れた直感をもっている。
もともとその素質があって教育を仕事に選んでいる場合もあるし、日々たくさんの人に会い、人の心や体の変化を読みとりながら、ある方向へ導く商売なので、その経験を通じて「顔を見て、ピンとくる」という感覚が研ぎ澄まされるということもある。
まして、子どもや学習者など、自分が導くことを任されている対象、ときには守るべき対象が目の前にいるのだから、“うちのコたち”にとって有害なもの、危険なものはいち早く察知できるようになっている。

なっている。
なっているのだ。
なっていなければ、それは教育者じゃないのだ。

どんなに有名で、一流の技を持っていても、教育に向かない人はいる。
教育者ならピンと来る。
誰でも彼でも、呼び込めばいいってもんじゃないのだ。
そういう人が教育現場に現れたら、教育者はその人の影響力をコントロールして、メリットを最大化し、リスクを最小化する義務がある。
遠巻きに見たり、軽く言葉を交わしたり、短時間触れ合う程度なら、学習者は感動したり感化されたりして、教育的に有益な経験ができるだろう。
でも、長期にわたり、がっつり学習者を預けることはできない。

たとえ込み入った大人の事情があろうとも、教育者ならば、学習者を守り、自らのホームグラウンドである学習の場を守るために、不適任者にお引き取りいただくということができなければならない。
それは、相手の専門分野における才能とは別の話なのだから、遠慮する必要などまったくない。
「他のことはわかりませんが、自分は教育のプロとして、あなたが教育に向いていないのはわかる」と、きっぱり言えばいいだけのことだ。

英語教育の話をしてるんだよ。

どんなに優秀でも、ネイティブでも、特定の研究分野の権威でも、教育に向かない人はいる。
海の向こうからご足労いただいていようと、人材不足であろうと、見栄えがよかろうと、そんなことは関係ないのだ。
学習者が遠巻きに見たり、軽く言葉を交わしたり、短時間触れ合うことで学習意欲を高めたら、頃合いを見計らって、きっぱりとお引き取りいただく。

それができないんじゃ、ダメでしょ。

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