忖度

「忖度」という語のまわりが、なにやらおかしなことになってるらしい。

何度かこのブログにも登場しているが(参照)、私は「忖度」というものにとても興味がある。
日本文化の濃いところをさらにぎゅっと濃縮した、大事なエッセンスの1つだと思う。
「amae」(Doi, 1971)クラスの、世界の注目を集める価値のある、とても日本的な概念だと思う。
日本文化ファンならキュンキュンしちゃう、魅力的な要素だ。

その「忖度」が今、日本で憂き目を見ているようだ。
あんまり近寄りたいタイプの文脈じゃないので詳しくは知らないけど、どうも「忖度イコール悪」という短絡的な結論に押されてしまいそうな気配。

私は文化や風習に良いも悪いもないという考えなので、この動きには不賛成。
なにしろ日本文化のファンなので、もしこのまま「忖度イコール悪」が定着してしまったら残念だなと思う。
ま、文化や言葉の意味や使われ方に変化はあってしかるべきだし、仮にこれを機に「忖度」が追いやられて消滅してしまっても、それはそれでしょうがない。
が、しかし、残念。

試しに「忖度」という語の身になって、忖度してみよう。

言うまでもなく、「忖度」とは他者の気持ちを推し量ること。相手の心中を察すること。
「忖度」はずっとそれ一本でやってきた。
それ以上でもそれ以下でもない。
殊更に絶賛されることもあるし、今回のようにやたら非難されることもあるけど、それは「忖度」を取り囲む環境が生むものであって、「忖度」そのものの性質や機能の話ではない。
すべては使われ方と使われる程度にかかっている。
本当の意味で気の利く人たちが適切に「忖度」をすれば、それはお互いにとって居心地の良い場を作るのだし、自分の欲やエゴを追求しようとする人が保身のために「忖度」を悪用すれば、それは当然よからぬ展開につながる。
今回の一件はまず間違いなく後者の事例だ。

そして不運にも、「忖度」は多くの現代日本人にとって聞き慣れない語であった。
いわゆる難読漢字でぱっと見では意味もわからないし、字面的にも音的にも特にポジティブな要素がない。
こういう語はほとんど外国語と同じで「見えない」扱いとなり、意味は文脈全体が醸し出すなんとなくの雰囲気からだいたいのところで感覚的にイメージして、“理解”することになる。

「忖度」としてはいつもどおり、良くも悪くもないニュートラルな状態で淡々と過ごしていたのに、急に引っぱりだされて多くの目にさらされることになった。
しかも今回「忖度」があてがわれた場所や使われ方は、最悪。
「忖度」と初めて出会った人は「忖度」の事情など知ろうともせず、周辺の最悪さをそのまま「忖度」の第一印象に当てはめて、「忖度」を叩く。
つい何日か前まではまるで縁のなかった人が、急に「忖度」という語を訳知り顔で使いたがり、「忖度は最悪だ」「忖度なんてロクなもんじゃない」などと言ってくる。

「忖度」は「えらいところへ来ちゃった」と思っているのではないだろうか。
かわいそうに。
親戚みたいな間柄の「察し」や「気が利く」までがとばっちりを受けて、「察するのはもうやめよう」「気を利かすなんて損だ」なんて言われているのを、心苦しく思っているかもしれない。
気の毒。

あるいは、来るもの拒まずだった自分の態度を悔いているかもしれない。
「思考停止」や「判断難民」、「無責任」、「背徳感」あたりとの関係を、すっぱり断つことができなかった。
いや、そのすっぱり切れないところが、「忖度」の良さでもあるんだけどね。
やりすぎておかしなことになっている人がいるのは知っていたんだから、用法用量を明記しておくなど、なんらかの防衛策をとってもよかったのかも。
いや、そのはっきり示さないところが、「忖度」の良さなんだけどね。
近いうちに「遠慮」や「畏れ」を誘って飲みにでも行って、「お互い大変だね」と慰めあうかな。
それとも、「自分たちのような語に、誤用や誤解は付きもの」と、すでに悟っているのかな。

「忖度」にはぜひこの難局を乗り越えてほしい。
「忖度」を良い方向で使える人たちはちゃんといるし、彼らはこれからも変わらず「忖度」を大事にする。
今いろいろ言ってくる人は、すぐどっかに行くからさ。
気にすんなよー。

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