世間

ふむ。
これが世間というものなんでしょうなぁ。

日本ほどではないにしろ、世界的に見れば投票率の低いアメリカ(参照)。
投票権のある国民のうち、選挙登録をした人が2億人強(参照)。
国全体の投票数・得票率はまだ出ていないので、集計の進んでいる近所に限って見てみると、全国的にはガチガチの「青い州」と思われているこのニューヨーク州(開票率97.3%時点)でトランプ氏に投票した人が259万人(参照)。
州内を見ると、NYC、Albany、Plattsburgh、Syracuse、Rochester、Ithaca といった、アカデミアにいる人間にはおなじみの都市部を除けば、地図は真っ赤に染まっている。
さらにその中を見ると、クリントンのお膝元とも言える州都地区に4万人、クリントン氏の住むWestchesterにも12万人、トランプ氏に投票した人がいる。
それだけの人たちの声が、一旦はかき消されたものの、最終的には届いたとも言える。

フロリダやオハイオにいたら、「どっちに転んでもおかしくない」と肌で感じられたかもしれないが、ニューヨークでそれはあり得なかった。
私の近所には、ピザを食べながら投票所の長蛇の列に並ぶタイプの人はいない。
私の周りにいる人たちは、出勤前に投票を済ませ、そのことを誇りに思い、史上初の女性大統領の誕生を信じて疑わなかった。

それが、こうなるのである。
世間というのは、本当に広い。
想像もつかない広さの中に、見たこともない人々が、信じられないくらいたくさん住んでいる。

そして今、私の周りの人たちは良くない予感に包まれている。
もし「予感」にも民主主義が働くなら、それが外れる可能性は大いにある。
そうやって楽観的に世間に身を委ねるという手もある。
もし作為的にコントロールして自らの予感を外そうと思ったら、知識やデータや分析に基づかない、奇想天外なことを想定内に組み込めるようにならなきゃいけない。
それは学識のある人には、とっても難しいことなわけで。

世間という得体の知れないものにすべてを預けるか、自らが不要、無価値と考え排除に努めてきたものに価値を認め、受け入れるか。
昨日まではそのどちらも「断る!」と言えば済む話だった。
それが、そうはいかなくなった。
どっちもイヤだけど、どっちかは選ばなきゃいけない。
その大いなるジレンマに苛まれるということが、いま私の近所に立ち込めている予感の正体なのかもしれない。

どうなっていくのかはわからない。
でもそれって、本当はいつでもどこでもそうなのだ。
わかったようなつもりでいたことを覆されて、ねじ伏せて、またわかったつもりになって、裏切られる。
世の中はたぶんそういうふうにできている。

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