EdTech

このところ、EdTech(教育テクノロジー)な話をする機会が続いている。

私がアメリカに来て最初に入ったTESOL(英語教育)の修士課程には、同じ科内のお隣さんに、きょうだいみたいな位置でCurriculum Development & Instructional Technology(CDIT:カリキュラム開発・教育テクノロジー)という課程があった。
このCDITの学生とは一緒に授業をとったりプロジェクトをしたりする機会が多く、私自身もオンラインが好きなタイプなのでよく話が合った。
のちに進んだ博士課程では、私がTESOLから上がったのと同じようにCDIT上がりでプログラムに入った人もいて、引き続き一緒になった。

さらにそののち、主にNYCで日本人の“教育仲間”に入れてもらうことになり、そこでテクノロジー系の知り合いが増えた。
それから数年が経ち、彼らの多くは学業を終え、日本またはアメリカでEdTechを牽引する仕事に就いている。

また、教育とはまったく別のルートから、友人が在米のまま日本のEdTechに関わることになった。
それで、質問されるままに、Flipped Classroom(反転授業)やCLIL(Content and Language Integrated Learning:内容言語統合型学習)の話をしたり、日本向けにEdTechを推進している人のブログを読み直したりしてみた。

いちおう21世紀のアメリカで教育を専門に教育を受け、いま最先端のEdTechをやっている人たちとゆるくつながり、彼らの話になんとかついていけているっぽいので、EdTechについて、少なくともかじった程度にはわかっているつもりでいる。
「emiもやればいいのに」とよく言われる。
確かに、私はいろんなことをすぐ思いつくし、その思いつくことにはテクノロジー的な知識や情報が必ず関わっているし、細かい作業や操作は好きなので、向いているだろうなと思う。

そしてEdTechの人たちはカッコよく、キラキラ輝いている。
高速に動く世界で、未来を描き、夢を実現し、ワクワクしている。
EdTechの人たち同士は、世界のどこにいようとも、あっという間にいとも簡単に意気投合してつながり合う。
ついでに、たぶんその活動はお金にもなるのだと思う。

そのうえで、私はEdTechに進まなくてよかったなぁと思う。
あんなにキラキラしていたら、私は学習者より自分のやりたいことを優先させたくなって、「自分の思いついたコレを動かすために、学習者を使おう」と考えるようになっていたかもしれない。
あんなに大勢の人がひっきりなしに出入りしていたら、「いかに注目を集めるか」ということを頑張るようになっていたかもしれない。
あんなに高速で次々とおもしろいことが起こせたら、「質より量、そしてスピード」を重視するようになっていたかもしれない。
大きなお金が動く場所にいたら、「少しでも高値で売りたい」と思うようになっていたかもしれない。

誤解のないように明記しておくが、これはあくまでも「私の力量では足りなかったに違いない」ということであって、EdTechに対する批判ではない。
私の知る限り、アメリカのEdTechのトップランナーたちは本当に教育熱心で愛にあふれ、人間としてスケールの大きい人ばかり。
practitioner(教員など実践に直結した仕事をする人たち)としての専門知識や指導力を兼ね備えたEdTech人もたくさんいる。

ただ、私のような小物は、きっとあの業界の勢いに呑まれてしまうだろうと思うのだ。
そして自分のワクワクのために、あるいは周りについていこうと必死になるあまり、いま以上に近視眼的になり、欲深くなり、ガサツになっていたような気がするのだ。
学習者一人ひとりのことを考えたり、教材の一つひとつ、学習項目の一つひとつを吟味したりする時間を惜しむどころか、「そんな暇はない」と言い放ち、その部分を平気で外注するようになっていただろう。
その外注先にしたって、選別する目も“暇”もないから、たとえば知名度や一般ウケの良さだけを頼りに、手っ取り早い順で選んでしまうかもしれない。
「私には専門科目はありませんし、現場のことはわかりませんから、先生、よろしく」と丸投げしてコンテンツを作ってもらう。
そしてその“先生”から回ってきたコンテンツを、確認する力も“暇”もないから、中身をろくに見もせず、とにかく急いで“ハコ”に入れ、世に送り出し、人々の反応を解析して改良を施し、日進月歩の世界で生き残ろうと頑張っていただろう。
そうやって頑張ることで、私は自分の価値を見出し、自らの善意を増幅させていただろうと思う。

そういう頑張り屋さんの私も悪くはない。
ただ、私の好みじゃない。
だからそっちへ行かなくてよかった。あぶなかった。

EdTechを推進する立場で、たとえばアメリカを基準に日本の現状を見れば、教育現場の反応は鈍く、システムは古く、動きは遅くて呆れるだろう。
日本人全体のITスキルは驚くほど低く、インターネット等の環境は整っておらず、いわゆる職員室にパイプ役となる人材はほとんどいないし、教員からは抵抗や拒否反応を示され、理由を尋ねてもはっきりしない。
どれをとっても、意味がわからない。
「んもう!」「話にならない」「全部とっかえないと」「有無を言わさず、とっととやっちまおう」という気にもなるだろうと思う。

わかる。
でもねぇ。
早くて雑なアメリカの中でも高速なものをそのまま持ってきたって、あの丁寧で保守的で慎重な日本に、そう簡単に合うわけないじゃん。
ゴリ押しすれば、感情がもつれるだけじゃん。

で、少なくとも一部には、すでに「EdよりTechだ」VS「TechよりEdだ」の対立が起きちゃってる気がするな。
「Techがわからないってとこを突かれないように、Edでイチャモン付けてくるんだろう」VS「Edを知らないからTechばかり押し付けてくるんだろう」のケンカみたいなところさえある。

いやいや。どっちもどっち。
EdもTechも、両者が、両方とも、わかるのがいいんだよ。
少なくともアメリカでは、たとえば教育理論を学んだ人や現場経験のある人が開発をしたり、逆に教員がアプリをちょこちょこっと操作して授業を作ったりすることは珍しくない。
現場のニーズと研究者や技術者の間にフィードバックがあり、連携があると思う。
EdとTechが対立するのは本末転倒だし、仮にどちらか一方が勝利をおさめたところで、誰にも良いことが起きない。

EdTech、日本、教育現場のいずれにも属さない、まったくの部外者、とはいえ明らかにTechよりEdに肩入れしている身としてバイアスまみれの私がなんとなく思うのは、日本のEdTechは現場の先生方への敬意が足りないんじゃないかなってこと。
先生方がもっともよく理解でき、もっとも大切だと考え、対等に議論することができる部分である教材や授業などのコンテンツを、EdTech側は軽視する傾向があると思う。
「今の段階ではまずシステムを整えて、普及させるのが第一。コンテンツの質は、あとから徐々に上げていけばいい」と考えているのかもしれない。
もしそうなら、それは通らないんじゃないかなぁ。

長年真面目に妥協しないで教えてきた先生たちが、自分の生徒に与えたくないと思うような“なんちゃって”なコンテンツを恥ずかしげもなく世に出して、ぐいぐい推し進めるのは、やっぱりダメでしょ。
先生の側から見れば、有機野菜の手料理で大事に大事に育ててきた我が子が、昨日今日出会った人にもらったジャンクフードでお腹を満たす様子を見せられているようなもの。
黙っていられるわけないじゃん。

そして、どんな事情があるにせよ、「とりあえず」の期間限定にしろ、その時々にはそこに関わる学習者がいる。
たとえ全体の進歩のため、業界の将来のためであっても、学習者を実験台にすることは、教育的には許されない。
まずいコンテンツが学習者に及ぼす影響は、学習者を観察した経験の浅い人には想像できないほど大きく、取り返しのつかないことになりかねない。

そりゃ、先生たちの多くは“学校育ち”という特殊な大人なので、一般的な社会の人と違うところがあるし、一筋縄ではいかない。
理想が高い場合も多いので、先生たちのお眼鏡にかなうのは簡単じゃない。
でも、だからといって無視はよくない。
ズルや手抜きをしないで、きちんとしたものを、きちんとした方法で提供し、きちんと説明すれば、あるいはせめてそうしようという誠意を見せれば、先生たちはもっと応援・協力してくださるんじゃないのかなぁ。
なんといっても先生方は教育者なんだもの。
かわいがってもらって、味方になってもらうと、強いよ。

現実的な今後の予想としては、残念ではあるけど、日本のEdTechは、近い将来“勝ち”をおさめるのだろうと思う。
最遅でも教育現場の世代交代を待てば、EdTechが思い描いていることはだいたい起こせる。
Techが勝って、Edが負ける。
でも、それによって日本の教育全体が沈む可能性もある。
そうなった後で困らないように、今のうちに先生たちの声に耳を傾けておいた方がいいんじゃないかな、と思う。
そして、なんとかうまく“勝ち”を回避してほしい。
勝たない道を選んでほしい。

勝っちゃったら、ダメなんだよ。
伝わるかなぁ。

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