Reflection

Reflection(振り返り、内省)について考える。

『「振り返り」はなぜ「かったるいアレ」になるのか』(参照)という記事を読んだ。
おもしろかった。
「苦手」なのに「書かされる」「儀式」としてのReflectionがどういうものか、よくわかった。

で、自分はどうかなと考えてみた。
…うーん。
またしてもoutlier なのかなぁ。

私は「書かされる」「儀式」としてのReflectionに遭遇したことがない。
取り立てて得意でもないが、「苦手」でもない。
教育に所属し、ミーティングやイベントに参加し、コーチングをやり、研究を進める身なので、Reflection を書いたり、口頭で伝えたりすることは日常的にある。
が、なんというか、それはごくごく自然なものなのだ。
Reflection は考える行為なので、その中で、たとえば自分のパフォーマンスを評価したり、自分の見解や感情の変化を振り返ったりという意味では考えるけど、Reflection そのものについて、好きか嫌いかを含め、いわば外側からReflection について考えたことはほとんどなかったということに気づいた。

いちおう教育学を通ってきたのでReflection の意義や有用性は知っている。
でも、別に良いからやっているというわけでもない気がする。
何らかのアクティビティをやったら、それについてReflection を行うことが自動セットされているのだ。
逆に、Reflection を禁止されて、何かをやった後で振り返ることができなかったら、私はとても気持ち悪いと感じるだろう。
Reflection を行うことはそのくらい自然なのだ。

だから私はこうしてブログを書いているのだし、師匠とのミーティングや、コーチ研修や、コーチング・セッションやワークショップや、ボランティア活動などについて、いちいちReflection を書き残し、まとめたフォルダーを山ほど持っているのである。
ま、書いとかないと忘れちゃうからなんだけどさ。

私にとって、Reflection がなぜかったるくないか、考えた。
元記事に倣って、「三大理由」を並べてみよう。

①かったるかったら、書かないから。
②読者を想定して書かないから。
③Reflection を書く頃には、書くことがまとまっているから。

①は禅問答かよって感じだけど、「かったるいことはやらないから、やる以上はかったるくない」ということ。
私は意味のわからないことや納得していないことにお付き合いで協力するのが“苦手”なので、もしReflect することを持っていないのにReflection を求められたら迷わず白紙で提出する。
だって、書くことがないんだもん。
ないのに無理に書くなんて、無理じゃん。

ちなみに私は子どもの頃からそうだったのだが、当時の日本の公立小中高校の生徒としてはかなり少数派だっただろうと思う。
先生方がどう評価していたかは覚えていないが、念のため両親の受け止め方を“取材”してみたところ、母からは「知ってたけど、別に気にしてなかったわ」と、いたって暢気な答えが返ってきた。

②は、今回、元記事を読んで、改めて気づいたこと。
私にとってReflection とは自分のために書くものなので、自分以外の読み手にどう思われようと知ったこっちゃない。
実際、私の書くReflection のほとんどは他者に読ませる予定のないものなので、たとえば師匠やコーチ仲間が読めない日本語で書いていたり、自分以外は開けないフォルダーに書き溜めていたりする。
それを基本として、そこへ、たまにヨソサマに読まれるReflection が混ざってくる、というイメージ。
読まれることがわかっているものは、たとえば相手が読める言語で書くとか、多少読みやすく編集するとか、自分専用のReflection にはしない工夫を施すことがあるが、Reflection の内容まで変えるということはしない。

とはいえ、「センセイ向け」の優等生な答えや態度を好む学習者がどこにでもいるのは知っている。
Reflection に限らない。
これは学習者の自主性や自律を目標に掲げる以上、非常に頭の痛い問題。
「そういうの、要らないよ」「意味ないでしょ」ということを伝えるように努力しているつもりだが、なかなかうまくいかない。
成績もつかず、進学や受験とも無関係で、比べる他人も存在しないコーチングにおいても「コーチが好きそうな答え」を手土産にしたがる(それ以外に答え方を知らない?)学習者がいるくらいなので、一般的な学校ではなおさらだろうと思う。

③は、Reflection の本体であるアクティビティの中で、いかにReflection の下ごしらえをしておくか、ということ。
たとえばReflection に当てる時間が90分授業の最後の5分間だったとして、85分経過したところではじめてReflection に着手するようでは、そりゃ時間も足りないし、考えも深まんないでしょ、と思う。
私が85分めにReflection を書き始めるとき、おそらく私はそこまでの85分間に考えたこと、感じたことを、やっと吐き出せる安堵感と、忘れないうちに書くことに忙しくて、かったるく感じている暇がないのだ。

そういえば、私は自分が講師やコーチやfacilitator側でReflection を書いてもらう場合にも、途中でReflection を想定した“タネ”を蒔いているようなところがあるかもしれないと思う。
「今の、それ、メモっときなよ」とか「また後で何か思いついたら教えて」とかは、別にそう意識して言っていたわけじゃないけど、偶然にも学生や受講生をReflection へとスムーズに移行させるのに役立っているのかもしれない。

そういえば、そういえば、うちのワークショップやコーチング・セッションの後に受講生が書いてくれるReflection は長文が多い。
後日、さらに追加で送ってくれる人もいる。
そうかぁ、それって珍しいことなのかもな。

そして、逆に受講生がReflection を「〆の儀式」と感じるようになったらまずいなと思った。
そんなやっつけ仕事なら、やんない方がマシ。
Reflection とは、なだらかに続く学習プロセスの中の「区切り」に際し、その直前までの学習を定着させるための「ひと手間」。
その「ひと手間」を惜しまず、積み重ねていくことで、学習プロセス全体がグッと豊かになるのだと思う。

というわけで、今回気づいたのは、以下のとおり。
・私はたまたまReflection と相性が良いみたいだが、世の中にはそうでない人がいて、もしかしたらそれが多数かも。
・Reflection が苦手な人に対しては「読み手に気を遣わないこと」「自分のために書くこと」を強調してあげるといいかも。
・「センセイ向け」のReflection を書いちゃう人には何らかの抜本的な対策が必要。そこが変えられたらその人の学習全体が変わりそう。
・Reflection は、そこに至るまでの下ごしらえを怠ると、学習者にとって「〆の儀式」にしかならない。
・私の仕掛けたことに対して、参加者がしっかりReflection してくれるということは、私が思っていた以上に貴重なことかも。

ふむ。

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