Bespoke

第二言語における表現の自由度とか、日本における英語の自由度とか。

「コーチング・メソッド」ページを書き直すにあたり(参照)ある語をきっかけに、意外にもあれこれ考えることになった。

その語とは「bespoke」。
日本語でいうなら「お仕立て」。
イメージとしては英国のテイラーか日本の呉服屋さん。
着用の目的を聞き、好みを聞き、体型や着た感じや動きを見て、生地や反物の素材や色や柄を選び、その人にぴったり合うよう仕立てられた、という意味の形容詞。
日常的なサイト拾い読みの中でなんとなく目に付いていたので、今回の書き直しを機に採用することにした。

一般的にコーチングの説明の中でよく使われているのは「tailor-made」。
日本語に訳されているものを見ると「オーダーメイド」「相手に合わせる」「個別対応」あたり。
うちのウェブサイトに載せるに当たっては、カタカナ語の「オーダーメイド」は避けたいし、「相手に合わせる」では意味が違うので、消去法+妥協案として「tailor-made(個別対応)」という書き方をしていた。

で、コーチングもこの6年で以前よりは広く知られるようになってきているので、そろそろいっかな、という感じで「bespoke」に変えた。
「tailor-made」よりシュッとしてるし、語源でもあり、見た目にもわかる”speak”な感じが、対話を通じて提供するサービス内容と合ってるし(参照)、アメリカにおけるソフトウェア系の新語という感覚(参照)が、既製品の大量生産でやってきた言語教育においても新しいイメージをもたらすのに一役買うかもしれないし、うちのサービスに興味を持ってくださる層は、元々の意味である“背広のお仕立て”とあながち無縁でもないから、その、そこはかとなく漂う英国風高級感(参照)が案外好まれるかもしれないし。
アメリカにおけるこの語の“舶来品”的な雰囲気が、すっかり日用品扱いになった日本の英語学習の中でかえって新鮮な存在感を放つかも。
「そういえば英語って舶来品だった」って気づくのも、おもしろいじゃん。

なーんてね。
いちおういろいろ考えたうえで採用することにしたわけだよ。
が、しかし。
いろんな種類の「うーん」が発生。

ベテランコピーライターのアメリカ人Jは「聞いたことあるけど意味わかんなくて辞書引いたわー」。
アメリカ人の若い子たちは「いんじゃね?」ぐらいの軽さ。
ファッション分野の経験を持つ英語教師のアメリカ人Tは「アジアだったらアリなんじゃない?」
で、肝心の日本人は辞書引いておしまいか、アルファベットの飾りとして読みもしないか。

うーん。
ううぅーん。
アメリカにおけるこの語の新しさやニュアンスを、日本の英語教育の文脈で共感してくれる人はいないのかしら。

ま、いっか。
これはきっといつもの、「ちょっと早かった」なのだろう。
しばらく待てば、広く使われるようになる。
見た目にも音的にも意味的にも、日本人に好まれそうなタイプだから、そのうち日本でも通じるようになるだろう。
待とう。

というわけで、これは2016年3月時点で、こういうことがあったよ、という記録。
後年、検索で飛んできた人向けにCOCA(参照)やNgram の類や(参照1 参照2)アメリカにおける“英国からやってきた英語”(参照1 参照2)などの資料を貼っといてあげよう。

そして、いったん日本に上陸してしまえば「何でもアリ」になって、すぐに手垢がつきまくって価値がなくなるんだろうという、残念な予感も併せて記しておこう。
日本の人は語源をたどるのが好きだから、アメリカをすっ飛ばしてイギリスから直輸入的な扱いにしちゃうのかも。
現代のアメリカを通っていることに価値があるんだけどなぁ。
ま、しょうがない。

そもそも日本に欧米から入る言葉には、その質や出自を問われる機会がない。
どこからどういう事情で入ってきたかなんて関係ない。
なんなら本物じゃなくても構わない。
なんとなくアルファベットが並んでいれば、みんな顔パス。
自由度が高すぎて、ガッカリしちゃうのである。

自由度といえば、かつて内田樹氏が新語を作り出すことについて「母語についてはそれが許される。けれども外国語の場合は困難である(不可能ではないが)」(参照)と述べていたのを思い出す。
第二言語話者の“新語”は誤用とみなされ修正の対象になることが多く、言語使用において母語話者と同じ自由度は与えられていない、ということ。

私はあんまりそうは思わないのだけど、それは私が第二言語業界最大手の英語非母語話者に所属し、おおらかなアメリカという国に住んでいるせいだろう。
私のまわりには、不完全な英語を操る私が、誤用かもしれない“新語”を作り出した場合に「ちちち」とやる人はいない。
むしろ”That’s a good one.”とか言って受け入れられ、仲間うちで定着してしまうこともある。
そして研究の世界において新しい用語が作られる場合、それをcoinした人物が母語話者かどうかが問題になることはありえない。
私がいる場所の英語に限っては、私を含む非母語話者にも、母語話者に近い自由度が与えられている。

そういう環境にあるので、私は新しい語を積極的に使うことに抵抗がないのだろう。
非母語話者/第二言語話者が、たとえばダジャレ的な言葉遊びを仕掛けたりするのは、ひょっとしたらナマイキで大胆なことかもしれないがあまり気にしてこなかった。
同じ理由で、日本語学習者が放つオヤジギャグに対して、私は容赦なく冷たい。

そういえば、英語で話していて、相手に「何それ?」と言われたとき、相手に理解されなかった理由として、もちろん自分の誤用や発音のまずさも候補に挙げるが、相手にとって耳慣れない語・表現だったということも同じくらい可能性がある理由の候補として挙げている気がする。
相手は母語話者・非母語話者、大人・子ども、若者・年配、アカデミア・非アカデミアなど、いろんな場合があるから、私が使う語や表現が、相手の理解の範疇外にあっても驚かないし、その理由もまた多様だろうと思っているのだ。

これは日本語の場合もまったく同じで、私は相手に「何それ?」と言われたら、理解されなかった理由として、やはり相手にとって耳慣れない語・表現だったということと横並びで、自分の誤用や発音のまずさの可能性を覚悟している。
その意味で、私は内田氏の言う母語話者としての“特権”を放棄しているのかもしれない。
ウチとソトとの区別がない。
私の言語に対する自由度は、母語も第二言語も同じくらいで、おそらくどちらもそう高くない。

私は日本語であれ英語であれ、言語に対して、「一時的にお邪魔して、ちょっと拝借している」という気持ちがある。
遅れてやって来て、先に帰る客(参照)なのである。
客として、その範囲内では自由にさせてもらえるとしても、あるいはその短い滞在中に何かしらのささやかな貢献をすることが許されるとしても、我が物顔で言語を使う気にはなれないのだ。

だからガラパゴス化した英語風の不思議な文字列を編み出したり、よく知らない外国語を勝手に省略したり改造したりするという、内弁慶で自由度の極めて高い行為とは距離を置いている。
糖質などを“軽く”した「オールライト」が”Alright”だったり、午前1時と「ひとつの良いロック」を混ぜてバンド名にしたり、ね。
芸術的には斬新さがあっていいんだろうけどね。
私には畏れ多くてできないし、しようとも思わないし、わりとタチの悪いいたずらだと思うし、ダサさも気持ち悪さも感じるんだけど、2016年現在、こうした行為を目にしても、多くの日本人は気にしていないか、むしろカッコよく感じているという事実があることも、併せて記しておこう。

いずれ、もっと英語のできる日本人が増えたら、アルファベットの文字列が意味を持ちはじめ、言語的気持ち悪さやダサさを訴える人が増え、「顔パス」が効かなくなって、日本の英語の自由度は下がることになるのだろうか。
はたして私の「短い滞在中」に、そんなドラマが起きるかな。

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