続々・英語とビジネス

「お金で動かない」という決意を、改めて。

豊かな国には、「教育に多額のお金をかけることを厭わない」という文化がある。
もちろん教育に限らず、必要なところに必要なお金をかけることには様々なメリットがある。
お金で済むこともあるし、自由も広がるので、お金をかけるという選択肢を持っていることは、おそらくかなり良いことなのだと思う。

お金を持っていて適切な使い方を知らない場合、お金を無駄遣いすることになりやすい。
「お金をかければかけるほど良くなる」というおまじないが、本当の価値を見極める力を奪うことがある。
豊かな国にはそうやって思考停止を誘う商法がある。

何が無駄遣いで、何が無駄遣いじゃないかは人それぞれ。
環境や考え方、その時々のニーズにもよるだろうが、多くの人が「無駄だ」と考えているところに実は価値があり、「無駄じゃない」と考えていることに実は無駄が潜んでいる、というのもよくあることである。

「教育」は、たとえば「趣味」や「博打」に比べると、一般的に「無駄じゃない」に分類されやすい。
なかでも現代日本における「英語教育」は特に「無駄じゃない」感が強い。
個人的にはもう少し「無駄」派が多くてもよさそうに思うが、私の感覚はズレているのだろう。
むしろ「無駄であるはずがない」という人が多いかもしれない。
それで、「英語教育」にお金をかけることに抵抗がない人が多いのだと思う。

私は他人の商売に口出しする気はないので、買いたい人と売りたい人がいて、売買が成立しているのなら、たとえそれがどんな教材でも授業でも、留学歴でも資格でも、好きなように売り買いすればいいと思う。
誰がどこにどんな風にお金をかけようと、何の文句もない。
その意味では「趣味」も「博打」も「教育」と同じ。
本人が納得してさえいればそれは個人の自由だし、消費行動として経済が潤うという意味で、無駄遣いさえ良いと考えることもできるのだろうと思う。

「趣味」や「博打」にお金をつぎ込むことに抵抗のある人が、実質的には「趣味」や「博打」と同じような内容なのに、「教育」というタイトルによって罪悪感を緩和して、目標やゴールをすりかえて強引に満足しようとしている様子は残念だなとは思うけど、それもしょうがない。

だから払ったお金に対して、その学位や資格や、思い出やお友達の数や、暇つぶしや、寂しさを紛らわせたり問題を先送りにして得られる一時の安心は見合わないんじゃないの、と思うことはあっても、それはあくまでも私の価値観によるものであって、本人が、たとえ途中ですり替えがあったとしても、結果的に満足しているなら、それでいい。

しかし、そのシステムに加担することは避けようと思う。
以前から言っているとおり、私は“英語教育”でカネ儲けをしようとする人には協力しない。(参照

そして、そのシステムに巻き込まれることも避けようと思う。
もし私の価値観によって「無駄遣い」に分類されることが私のところで発生するようなことがあれば、少なくとも「私には無駄に見える」という事実を伝えようと思う。
お金をかけて「趣味」や「博打」を楽しみたい人には「うちはそういうの、やってないんです」ときちんとお伝えする。
学習のために時間と労力を負担する覚悟のない相手からお金をもらう理由が、私にはない。

それで立ち行かなくなって、背に腹は代えられなくなって、カネ儲けせざるを得なくなったら、そのときは「教育」から足を洗おうと思う。
教育に対して、恩を仇で返すようなことはしたくない。

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