デジタルと想像力

ゴリラの話から、考えた。
デジタルと、想像力や創造力について。

ほぼ日の新春企画『おさるの年にゴリラの話を』(参照)を読んだ。
京都、大学、ヒトの思考、一般的なイメージへの専門家のツッコミ、“ダミー”としての目標や計画、など、いろいろと個人的にタイムリーでおもしろかった。

その対談の中で、「メールで来た「よくやったね」をずっと残しているのは危険」というのがあった(参照)。
これ、とっても重要な指摘だと思う。

情報がデジタル化できるようになり、無期限、無制限に保存や保管ができ、いつでもどこでもアクセスできるようになった。
良い想い出を「アーカイブ化してずっと残す」、あるいはその残した記録を見返すというのは、多くの人が毎日、ほぼ無意識にやっていることだろう。
なんなら、たとえばやる気を起こす、とか、落ち込んだときに自分を慰める、とかの文脈で、有効なテクニックとしてどこかの啓発本で推奨さえされているような気もする。
ちょっとした待ち時間や移動時間の間に録画した動画を掘り起こして見たり、撮りためた写真を見返したり、保存したメールやメッセージを読み返したり。

いわゆるアナログの、たとえば紙に書いた文字なら、時間の経過とともに紙は変色しボロボロになってくる。
文字の形にも違和感が出てくるし、インクも薄れてくる。
たとえば写真に白い枠がついていたり、表面に絹目の加工がしてあれば否応なしに「古さ」が感じられる。
文字や画像の内容といった、“メインの情報”が目に入る前に質感など周辺情報から「古さ」が飛び込んでくるのだ。

劣化しないデジタルの情報はその「古さ」が先に飛び込んでくる、ということを排除する。
そのことが、少なくとも少し前までは全面的に良いこととして受け入れられ、だからこそ発展した。
「いつまで経ってもキレイなまま」というのは理想的であり、夢が叶ったのであり、完璧であり、影の差す隙など一切ないように思われたのだろう。

しかし、人間の脳はデジタルを作り出すところまでは行けても、デジタルの完璧さに対応するほどではないのだろうと思う。
いずれは対応できるようになるのかもしれないが、少なくとも今のところは、脳の方が後れをとっているように思う。

今の私たちの脳はおそらく私たちが期待するほど賢くないので、見てすぐに「古さ」を感じさせるものは「過去」と判断できても、一見、古くなさそうなものを「過去」と判断するのは得意じゃないだろうと思う。
「古さ」が見当たらないと、つい「現在」と錯覚してしまう。
その錯覚がクセになると、現在と過去の区別がつきにくくなる、…なんてことも、あるんじゃないかしら。

また、たとえば移動時間ごとに、日々目に入ってくるものに対し、「これは同じものを人工的に繰り返し見ているのであって、別に何度も起きている大事なことってわけじゃないから、取り立てて記憶しておく必要はない」と判断できるほど私たちの脳は賢くないから、スマホに残した画像やメッセージを見返すごとに、どうしても記憶は強化され、長期保存されてしまうのだと思う。
で、どうでもいいことを重要視してしまったり、小さなことをやたら大きく捉えてしまったり。
脳の勘違いに自らがだまされてしまうというわけだ。
ま、“啓発系”の狙いはまさにそこにあるのだろうけど。

時間や空間を超越し、記憶を書き換え、塗り替える。
それを、実際のところはともかく、いちおう自発的に、自ら進んで行うようになり、やがて習慣付けられる。
習慣になった後は、日常的に自動的に繰り返される。
繰り返しによって強化される。

私はどうも自然に逆らうということを好まない傾向があって、記憶に関しても、忘れたり薄れたり、そうかと思うと何の脈絡もなくふと思い出したりするのは楽しめる一方、強制的に記憶し続けたり、思い出したりさせられるのは気持ち悪く思う。
そういうタイプなので、デジタルによって自分の記憶が操作されるようなことはなるべく遠ざけている。
が、たとえばFacebookのご親切な機能を見ても、それを支持する人たちの様子を見ても、「捨てられない」人たちの言い分を聞いても、どうやら世の中は「情報をもれなく、できるだけ多く保存し、こまめにアクセスして薄れた記憶の濃さを修正し、過去のものを現在のものとして改めて保存する」という傾向がどんどん強くなっているように思う。

そういえば。
最近見たTEDx Talkを思い出した。
The Roots of Religion: Genevieve Von Petzinger at TEDxVictoria
“Archives” の話からの、”Archaeology”はただの偶然だけどね(参照)。

うん。
時空を超えるという作業は、想像力が担うべきなのだ。
それを外注すると想像力の出番がなくなる。
出番がなくなれば、想像力は衰える。
想像力がなければ、新しいものを作ることはできない。
他人の気持ちや立場をわかろうとすることもない。
それは「危険」だ、と。
そういうことなのではないだろうか。

そういえば思い出に浸ってばかりいる人とか、曲解や自己編集の記憶を溜め込んで、何でもかんでも事細かに覚えている人というのは、過去と現在を混同しやすいような気がする。
また、目に見えないものを軸に話を展開させたり、論点から外れない範疇で深く思考したり、存在しないものを新たに作り出したりすることができる人は、過去と現在の区別がきちんとついているような気もする。

ふむ。
「過去にすがる」と「創造性」は反比例する仮説、かな。
ものすごーく噛み砕いて、離乳食並みに原形をとどめない表現にすると、「スマホに保存したファイルを見返すごとに思いやりがなくなり、クリエイティビティが低下する」仮説。
どうかしら。

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