文法

「文法が大事」vs.「文法は大事じゃない」を考える。

「文法が大事」なんてことは、どこの英語の先生も言っているし、そう言っている本やサイトや記事も、いくらでもある。
一方、「文法は大事じゃない」と言う本やサイトや記事も結構ある。
“先生”はあんまりいないけど、“先輩”ならたくさんいる。

で、学習者は迷う。
「大事」を選ぶと文法を勉強しなくちゃならなくなる。
「じゃない」を選べば勉強しなくてよくなる。
「じゃない」の方が人気ありそう。
「じゃない」がいいかな。

で、英語の先生はまた言う。
「文法は大事だよ」。
皮肉なことに、この言葉は「文法が大事」と知る人にだけ届く。
「大事じゃない」の人に届かないのはもちろんのこと、「どっちを信じようかな」と迷う人にも届きにくい。
そして、迷っていた人が「どっちでもいいなら『じゃない』にしとこ」と、文法から離れる選択をするのを止めることができない。

第二言語(英語)を学ぶ以上、文法が大事なのは間違いない。
なのに、それが伝わらない。
どうしたらいいかしらね。
軍隊式に「つべこべ言わずに命令に従え」はイヤだしね。
「やるもやらないも自由」という選択肢は与えてあげたい。
ただ、「大事」と「大事じゃない」は選択肢ではない。
「大事」は間違いない。
「大事とわかったうえで、やるかやらないかは自由」にもっていかないといけない。

「じゃない」を訴える人は「大事」を訴える人より多くの日本人英語学習者の心をつかんでいる。
「大事」を訴える人は学習者の心をつかみ損ねているのだが、それに対して工夫や対策を施していない場合が多い。
「学習は学習なのだから、学習者の心をつかむ必要はない。心をつかむなど不届き者の不純な考えであり、清き教育者がそれに倣うなどもってのほか」という時代も確かにあったんだろうけど、ちょっとそんなこと言ってる場合じゃないような気が、私はする。

ふむ。
で、どうすっか。
まずは「じゃない」を訴える人に学ぶところから始めてみるか。
彼らはどうやって学習者の心をつかむことに成功しているのだろう。
ポイントは「ラク」「多数」「なんとなく」。
日本人に人気の「ヤンキー文化」の香りをまとわせながら、説明を試みてみよう。

中級以上の、日本では「英語ができる」に分類される人たちの中には、「大事」族と「じゃない」族が混ざっている。
「大事」族も「じゃない」族も、主要な構成員は同じタイプの仲間。
先輩が後輩を誘いこむ方式だ。
最初から「大事」と決めている人は迷わず「大事」族に入るし、最初から「じゃない」と決めている人は迷わず「じゃない」族に入る。
それぞれのコアメンバーの数は、たぶんそう変わらない。
勢力となるためには、「どっちにしようかな」と決めかねている圧倒的多数の初学者を取り込む必要がある。

迷える学習者を、かつては「大事」族が軍隊式に取り込んでいた。
が、時代の流れでそうはいかなくなった。
そして「じゃない」族が台頭してきて、迷える学習者をざばぁーっと取り込んでいった。

「大事」族と「じゃない」族は、中級以下の学習者には見分けがつかない。
見分けがつかないから、どっちでもいいように見える。
どっちでもいいなら、ラクな方を選びたい。
厳しそうで細かそうで重そうでうるさそうな「大事」族と、優しそうで易しそうで軽そうで楽しそうな「じゃない」族。
「大事」族が、いわば殿様商売を長くしてきたのに対し、「じゃない」族は営業やマーケティングで顧客を拡大してきたベンチャー企業のようなもの。
学習者は魅力満載の「じゃない」を選ぶ。

「じゃない」族をリードする人の強みは、この「どっちでもいいなら、ラクな方を選びたい」という学習者の気持ちをよく知っていること。
何を隠そう、彼ら自身がそうだから。
一方、「大事」族の多くは地道な作業を厭わないタイプで、「ラクな方を選ぶ」という経験が少ないから、このあたりの学習者心理がよく理解できていない。

そして「じゃない」族は、文法を回避した状態を保ってそのまま進む。
メンバーの多くは英語を使う機会がないまま、幽霊会員になる。
幽霊会員は脱退しないので、在籍者数を保つのに好都合。
英語を使っていないから「文法をやっていないせいで困りました」などの事例も、クレームも反乱も起きない。
勧誘上手なので新規会員はどんどん増える。
たくさんいれば、安心して入る人が増える。
こうして「じゃない」族は数を増やし、勢力を拡大してきた。

「大事」族にはこれができていない。
いかんせん、文法学習は実際のところラクじゃないので、イマドキの多くの日本人学習者の好みに合わない。
そしてあいにく「大事」族は正直で真面目なので、テキトーなことを言って勧誘するというやり方を好まない。
どこかに「こっちは正しいことをコツコツやっているんだ」という自負や、「数なんて関係ない、少数上等」という意地もあるのかもしれない。
「きっといずれ、皆にわかってもらえる日が来る」という淡く美しい期待もあるのかもしれない。
それはそれでいいんだけど、でも迷える学習者たちが「じゃない」族にフワフワッと取り込まれてしまうのは、そろそろ見過ごせなくなってきているのではないだろうか。

「じゃない」族の学習者たちのうち、英語を使う環境に身を置くことになる人たちは、ある程度まではそれなりに進めるが、やがて頭打ちに遭う。
「大事」族は「それ見たことか」「だから言ったでしょ」、「やっと我々の出番が来た」と思うかもしれない。
ところが「じゃない」族はそう簡単には折れない。

頭打ちに遭うところまで進んだ「じゃない」族には「なんとなくで押し切る」というスキルが身についている。
品詞を勝手に改造したり、語彙の圧力で踏み倒したり、雰囲気や感覚を頼りに走り抜けたりする。
周りが困惑することはあっても、本人が困ることはめったにない。
本人が「通じた」「わかった」「合ってる」と思い込み、満足し、ハッピーならばそれでいい。

そもそも「じゃない」族の旗印は、文法という社会的ルールを無視することなので、会話の相手や読者など、自分の言語の受け手となる人のことを考えてはいけない。
うっかり相手のことなんて考えたら、社会性が出ちゃう。
だから徹底的に自分のことだけを考えて、言いっぱなし、書きっぱなし、誤解や無理解はスルーして、通じようが通じまいが、後々なにがどうなろうが、カタイこと言わないで、スマートに軽やかに突き進むのがよい。
中身を濃くするとか、しっかりわかるとかはダサい。
そのためにコツコツ努力とか、意味わかんない。
今すぐ、なんとなく、ペラペラ、キラキラがカッコいい。

さらに「じゃない」族には「これはネイティブのやり方である」という教えがある。
母語話者というのは、文法についての明示的な知識がなくても、文法ルールに自然に則って言語を使っているものだが、「じゃない」族はこの「明示的な知識がない」という点だけを根拠に「ネイティブだって文法を知らない」と結論付ける。
「ネイティブも『文法は大事じゃない』と言ってた」という都合のよい証言も取れているので、「じゃない」族は母語話者の支持を得ているかのように見せることができる。
「ネイティブもこっちの仲間だぜ」ってなもんである。

そして仲間同士の連帯はますます強まり、仲間うちでだけ通じるタイプの“英語”を使って楽しくやっている。
つまんない話を持ち込んで、場をしらけさせるのは禁止。
仲間を裏切るようなことは厳禁。

ふむ。
で、どうするか。
引き続き考えよう。

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