英文学と英語

英文学と英語の教育が混同されていることについて。

私は日本の大学などで、文学者が英語のクラスを担当していることを不思議だと思っているが、不思議なことに、それはあんまり不思議と思われていない。

不思議と思う理由は、私が文学教育と外国語教育をとても違うものだと思っているから。
たとえるなら、うーん、たとえるのが難しいんだけど、あえてたとえるなら、車の博物館で受ける高級クラシックカーの解説と、教習所で習う車の運転の仕方、とか?
伝わるかなぁ。
片や芸術、片や日常。

ただ実際には、たとえばReading やWriting については、文学の初学者と外国語の上級者で重なるところがなくはない。
この意味で博物館と教習所のたとえはマズイ。
しかし、だとしても混同するほど紛らわしくはないでしょ、と思う。

私は教育に所属しているため、Literature 教育といえばK-12(幼稚園から高校までの教育)のEnglish Arts (英語=国語)が身近なところにある。
州都に立地し、DOE(文科省?)と近い関係にあるせいもあってか、うちの学部にはLiteracy(リテラシー)、Reading(読み)、Writing(書き)の教育を専門とする教授の層が厚い。
当然、その教授たちのもとで研究をしている学生がたくさんいて、私は博士課程で彼らとクラスメートになり、一緒に教育理論を学んだりプロジェクトを行ったりしてきた。

私が彼らを「別分野の教育者」と認識しているのと同様に、彼らも私たちESL、EFL、TESOLという第二言語に関わる人を「別分野の教育者」と認識しているだろうと思う。
確かめたことはないけどね。

文学と近いところにあるのは、演劇や歴史、宗教、哲学あたりだろう。
私は最初にアメリカへ来た2001年、K州でお世話になった大学で関わる人に演劇関係者が多かった。
それで初めてアメリカの演劇教育を間近に見せてもらい、「へー、演劇の人ってこんなに本読むんだー」と思ったものだ。
演劇の人が読むといえば台本ぐらいのイメージしかなかったからね。

また、数年前、ある脚本家と会って話したとき、彼の考える「セリフ」と、私の考える「文字起こし」との違いがわかってとてもおもしろかった。
英語ではそれぞれ”Script”、”Transcript”と言うので似ているようだけど、”Script”が語源どおり「書く」という創作の範疇のものであるのに対し、コミュニケーション学における”Transcript”は「聞く」に始まる。
で、私は前者を文学寄り、後者を言語教育寄りと考えている。
(なので言語教育におけるいわゆるドラマ・メソッドには賛成していない。)

これら自国の文化や歴史に造詣が深く、母語の芸術を極める人たちを私はとても尊敬している。
彼らの多くがモノリンガルで、外国語の学習を試みてもあまり成功しなかったりするのも、私が文学等と第二言語学習を遠く見積もっている根拠の1つである。
ちなみに私はそういうモノリンガルの職人的カッコよさに憧れている。
巷では、使える言語が増えると良いことが増えるように聞くが、使える言語が増えれば増えるほど深い思考に到達する前に思考が散ってしまう傾向、つまり考えを深める際に横滑りしちゃうような傾向が強くなるんじゃないかしらと思う。
(なので多言語教育を推進するつもりは今のところない。)

そういう諸々の経験や見聞を通じて、いちおう言語教育を標準より詳しく、そこそこ長くやってきて、総合的に考えて、「文学教育と言語教育とは関わりが薄い」と思う。
だから日本で「英文学」と「英語」がわりと普通に混同されていることを不思議に思う。
これを「個人の感想にすぎない」と思う人もいるだろうし、そうでない人もいるだろう。

不思議に思ったうえで、私はこれを「大人の事情」と理解している。
日本の英語教育は人材不足だし、今のところ学習者はおとなしいし、中級以上の英語使用者の力の差を見分けるシステムがないし、文学を通じて外国語に触れた時代の名残がたっぷりあるし、大学教育における文学の“集客数”が劇的に変化してしまったし、なんとなくずっとそうしてきたし、波風は立てたくないし、しょうがないのである。

学生の側も、よくわからないままなんとなく巻き込まれて、特に不満に思っていない。
K-12にあたる高校卒業までの教育では文学の「ぶ」も知らず、小説の最初の1フレーズと作者名を暗記し、あとは漢字の知識で「国語」を乗り切ってきた人が「英語が得意」という理由で「英文学科」に入学したりする。

ひどい場合は「外国語学部」と「文学部」の区別も知らず、「英」が付く学科をやみくもに受験して、ひっかかったほうに進学し、入学してから「あれ?英語だっけ?英文だっけ?」となったりする。
何を隠そう、私がその例だ。
高3の2学期になってから急に大学に進学することになったので、学部とか学科とか、専門とか言ってる場合じゃなかった。
で、なぜか平均より出来がよかった英語を軸に受験をねじ伏せ、文学に興味がないのに誤って「英文学科」に入ってしまい、案の定、文学のクラスにはまったくついていけず、言語学系のクラスや英会話や外国の時事ネタを学ぶクラスで単位を稼ぎ、いいかげんな卒論でごまかして“大卒”という就職に必要なカードを得た。

当時、そんな学生は異端扱いされていたが、いまや文学部に「英会話」や「TOEIC対策」や「異文化コミュニケーション」の講座があるのは珍しくない。
私のように誤って英文学科に入った人にもやさしい仕組みになっている。
そんな人がいるかどうか知らないけど。

たとえば文学者が「英会話」を受け持っても、さほど問題はないように見える。
文学者の中には英語が上手な人が多く、会話に不自由しない人も多い。
しかし、自身ができることと、それを教えることは違うので、特に長期的には問題があるように私の目には見える。

我流の教育は、自分が受けた教育の焼き直しに頼る部分が多く、それはその人には合っていて功を奏したのかもしれないけど、科学的検証がないので汎用性は低く、本人以外に応用が利かない場合が多い。
教室外の要素との化学反応を無視するわりに、個人的な感情や印象に絶大な信頼があったりして不安定になりやすい。

そしてなによりも、いま教えている人が経験した教育は、一世代以上前の、古い教育なのだということが無視されやすい。
それを最新事情とのすり合わせもせずそのまま起用すればどうしても無理が生じるのだが、そのあたりは驚くほど穏便に、何事もないかのようにして済まされている。
ま、そりゃおばあちゃんの知恵が現代にも生きるように、「経験した人が言うんだから間違いない」というのもなくはないんだけどさ。

このことは、たとえば一流アスリートと名コーチの例とか、保育士と一般のおかあさんの違いとか、スポーツや子育てではその差が歴然であることがよく語られ、一般にも納得されているようだが、こと英語教育では、なんというか、見て見ぬふりがされている。

でも、仮に違いがわかってても、結局やっぱり変えられないんでしょうな。
事情があるんでしょうな。
そうでなければ、なぜこれほど日本の英語教育がうまくいかないか、説明がより難しくなってしまうもんね。

アメリカで出会った文学や演劇の研究者が帰国して、日本の大学で「英会話」や「TOEIC対策」を受け持つ。
友人としては、「仕事が見つかってよかった」と思う。
「本当はそんな講座、受け持ちたくないだろうに」と気の毒にも思う。
英語教育側の人としては、「他分野の方なのに、お手伝いさせてすみません」「うちのコがお世話になります」と思う。
「そのやり方では、ちょっと…」と思うこともある。
でも、お任せする以上はしょうがないので黙っておく。
英文学が英語教育に混ぜ込まれている環境でしか起きない、複雑な現象。

過去の自分を含む学生/生徒/学習者に対しては、「自分が何を学びたいのか、よく考えてちゃんと選んでほしい」と思う。
学びたいものも、学ぶ目的もなく、なんとなく時間とお金を使って、教える側と教わる側のミスマッチを助長するのは、関わる人すべてにとって不幸である。
その不幸につけこんで商売をしようとする人たちもいるから気をつけてね、と思う。

日本の英語教育をよくしたいと本気で思っている人はいる。
そのために研究や実践をしている人もいる。
一方で、そこに携わりながらも、日本の英語教育がどうなろうと、知ったこっちゃないという人もいる。
日本の英語教育がよくなると困る人もいる。
よくならないように努力している人がいるかどうかは知らないが、もしいても、私は驚かない。

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