評論家

「口ばっかりで実力が伴わない」っていうけどさ。
ま、そういうもんなんじゃない?

言うは易し、行うは難し。
「そうじゃないんだよなぁ。こうなんだよ。簡単なことなのになぁ。なんでできないかなぁ」って言うヤツに、じゃあやってみろと言うと、できない。

いや、たぶん、わかってはいるんだと思うよ。
知ってもいるんだと思うよ。
少なくともある程度は。
ただ、ある程度でしかないのよ。
聞きかじりだったりもするのよ。
耳年増の若くない版。

たとえば“行う”者を「選手」、“言う”者を「評論家」と考えてみよう。
評論家の中には一度も選手になったことがない人もいるが、元選手もいる。
これが、タチ悪い。

一線を退き、選手としての力は衰える一方で、自己ベストを叩き出した頃の記憶は美化され、なかなか消えていかない。
評論家の過去の栄光は何度も繰り返し語られ、磨きぬかれた鉄板ネタとして話の完成度はどんどん上がる。
さらに知識や情報が豊富で、お目も高くていらっしゃるから、理想は超絶高くなる。
自分ではできないことも滔々と説くようになる。

そういうもんなんだと思う。

英語教育についても、同じ。
「そうじゃないんだよなぁ。こうなんだよ。簡単なことなのになぁ。なんでできないかなぁ」って言うヤツに、じゃあやってみろと言うと、できない。
しゃべらせればしゃべれないし、書かせれば書けないし、語彙は乏しく、文法は不安定、悪い癖は治らず、短いやりとりにも大量の集中力を要してすぐ疲れてしまう。
ダメ出しするなら解決策や提案も出してくれればいいのに、「そんなこと知るか」と放棄する。
教えるための技術も情熱も瞬発力もアイディアもない。

彼らの多くは“元選手”。
昔はもっとできてたらしい。
証拠はないけど、本人がそう言うんだから、しょうがない。

現役の選手たちはうんざりするよね。
過去はどうあれ、現在できてない人に言われたくないよね。
苦痛だろうと思う。うざいだろうと思う。
でもねぇ。
残念ながら、そういうもんなんだと思うよ。

評論家たちは、現役の選手たちには勝てない。
仮に、今の彼らが、彼らの語る現役時代の力を取り戻しても、彼らの頃とは時代が違うから、通用しないことが多いと思う。
現在の現役選手たちを倒せるほどでもないと思う。
本当は心のどこかで彼らもそれをわかっているのだと思う。
だから御託を並べ、煙に巻き、威圧感で押し切る。
そういうもんなんだと思う。

私もいつか評論家になるのかもしれない。
今のように日々英語を使うことがなくなり、言語に対する感性が鈍り、気力や体力が衰え、甘え、ラクをしたがり、古いものにしがみつくようになり、やがて私の英語はすっかり劣化し、時代に取り残され、“英語選手”を引退することになるのかもしれない。

そして評論家になった私は、選手たちに向かって「こう見えても私、アメリカで10年も暮らして、昔はペラペラだったんですよ。大学院で学位もとったし、ネイティブと対等にやりあったものです。発音もすばらしくて、よくネイティブと間違えられました」とか、言い出すのかな。
自分の英語が使い物にならないのを棚に上げて「そうじゃないんだよなぁ。こうなんだよ。簡単なことなのになぁ。なんでできないかなぁ」ってボヤくようになるのかな。

ま、だとしても、しょうがない。
しょうがないけど、やだなぁ。

選手を退いたら、もう英語については一切語らないようにするのがいいかもしれない。
ただ、おそらくそれはとても難しいんだろうなぁ。
とはいえ、一生現役もキツイしなぁ。
「数十年後の日本人は、評論家にボヤく隙を与えないくらいみんな英語が上手になってるから心配ない」と思えるほど楽天家でもないしなぁ。

せめて、そのときの選手のみなさんに先に謝っておこう。
評論家の私が迷惑かけたら、ごめんね。
どうぞ相手にせず、聞き流してやってください。
きっとあなたたちの方が、現役時代の私よりうんと上手だから、気にしないでください。
本人が多少得意になっていたとしても、それは2015年頃の、他の日本人に比べれば、という程度の話です。
ショボい話です。

当時の日本人はまだまだ英語が下手でした。
下手なのに、勘違いがはびこっていました。
ふわふわした英語の使い手が簡単に“先生”になれた時代です。
需要もあったので、数を増やすために、やむを得なかったんです。
「ガラパゴス」って聞いたことありますか?
日本人同士でないと通じない英語が街にあふれており、多くの日本人はそれが世界に通じていると思い込んでいました。
その実態に気づいている人もいましたが、あいにくごく少数で、皮肉なことに英語が上手な人ほど外国へ出て行ってしまったり、英語教育には携わらないということが起きていて、事態を変えることが難しかったのです。

おそらく私の英語は、その時代の日本人の“平均”よりはいくらか上だったと思います。
でもペラペラだったとか、すばらしかったというのは嘘です。
評論家と化し、頑固になった私は認めないかもしれませんが、そうでない証拠はいくらでもあります。
それなりに努力はしましたが、自慢できるほどの域に達したことは一度もありません。
当時の私はそれを認め、受け入れていたつもりでしたが、わからないものですね。

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