『「日本人と英語」の社会学』

『「日本人と英語」の社会学』を読んだ。

私は統計が嫌いじゃないし、興味がある。
授業をとっていた頃は結構ハマって楽しんでいたし、『Gapminder』(参照)や『データえっせい』(参照)などは好きでマメにチェックしている。
統計ができる人に憧れているところもある。
ただ、私の興味の中心は「学習者一人ひとり」なので、本格的に統計の道へ進むことはなかった。

統計学者で教育に籍を置くA教授は「教育の研究で統計を使いたくなったら、中途半端にやるより、統計の部分だけ専門家に外注した方がいい」と言っていた。
それで私は統計からすっぱり足を洗った。
統計学者でコミュニケーションに籍を置くS教授は「専門家でもしばらく使ってないソフトは使い方を忘れる。統計は筋トレと同じで、やり続けているとラクだけど、いったん離れると辛い」と言っていた。
今の私はもう簡単なデータも読めないくらい“統計筋”が落ちている。

自分ができないことを他の人に頼む場合、大事なのは「誰に頼むか」だ。
専門家に専門知識がじゅうぶんあるのは当然として、特に統計において、私は処理をする人の正直さを見る。
バイアスが開示されていて、そのバイアスに納得ができれば、あとはもう、だまされてもいい。

そんな私が読んでみた。
『「日本人と英語」の社会学』。

いやぁ、カッコいい。
博士課程の最初のころにこの本に出会っていたら、今とは違うインスピレーションを感じていそう。

学術的にはまた読み直すとして、まずは一般書として。
読みやすく、わかりやすく、おもしろくて、スイスイ読んでしまった。
英語の論文を読み慣れた人にやさしい構成で、統計については私のような素人が迷子にならないよう、手取り足取り、非常に丁寧な説明が施してある。
随所に散りばめられた著者の気遣いがありがたい。

「日本人に英語は不可欠」などの言説の、ホントのところを章ごとに一つずつ解き明かしていく。
「次の章こそは思いもよらない結果が書かれていて、日本の英語教育についての自分の無知、盲目、的はずれっぷりを突きつけられ、愕然とするのかも」と心配しながら読み進めたが、幸い、そうはならなかった。
ほ。
これは、私が出会う人たちには“ルイトモ”が少なく、彼らがサンプルとしてランダム抽出に近い状態であることが関係していると思う。

この本の副題は「なぜ英語教育論は誤解だらけなのか」。
その「なぜ」の回答は終章pp.256-8にまとめられているが、他にもそれに当たると思われる部分をメモ。

– (「不誠実ですらある」)「努力決定論」の存在。(p.49)
– 政治家にとって英語教育政策は「金のなる木」(p.54)
– 一部の英語関係者にとって英語の必要性の低さは「不都合な真実」かもしれない。 (p.176)
– ビジネス界にとっても、政府にとっても「英語使用ニーズの増加」言説は都合がいい。(p. 190)

日本で英語を学ぶということは一筋縄ではいかないのだなぁとつくづく思う。
日本の英語教育に携わるということには、こうした雑音の中で、できるだけ学習の邪魔を取り除き、不誠実でない方法で学習意欲を高め、学習者のための環境を整えることも含まれてくるということだろう。
ただ、雑音はあまりにも強力で、正直、手に負えないところもある。
せめて、雑音に加担するようなことは控えよう。

そして、言説や政策が右に振れたり左に振れたりする中で、それはそれとして、目的を見失うことなく、集中して、自分の学習を守っていける学習者を応援していきたいと改めて思う。

寺沢 拓敬. (2015).「日本人と英語」の社会学: なぜ英語教育論は誤解だらけなのか. 研究社.

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です